枚方の神社シリーズ 第1回 |
2012/4/25 取材 |
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第一の鳥居の手前にある石碑は左側「桓武天皇先帝御追尊之地」と右側「樟葉宮旧蹟」があり、鳥居を潜ると広大な境内は常緑樹林の樹木が鬱蒼と茂り、参道を行くと霊気に触れて引き締まったような厳かな空気が感じられました。 第二の鳥居、第三の鳥居を潜って本殿に参拝し、春の名残惜しい桜吹雪が舞う拝殿前で宮司の片岡弘和様から懇切丁寧なご説明を受けました。 【交野天神社・末社八幡神社・末社貴船神社の概要】
【継体天皇樟葉宮跡伝承地】
【交野天神社の主祭神・造営年代】 主祭神は第49代光仁天皇で、天児屋根命・菅原道真が合祀されています。第50代桓武天皇は、延暦6年(787)、長岡京の南郊の地を選び、郊祀壇(こうしだん)を設けて、父の光仁天皇を天神(あまつかみ)として祀った。 これは中国の皇帝が毎年冬至に都の南に天壇を設けて、天帝を祀る例にならったもので、当社の起源はこの郊祀壇にあるといわれている。 桓武天皇がこの地に、父光仁天皇を祀ったのは、この地が継体天皇即位地の樟葉宮伝承地であったことが最も大きな理由と思われる。創建当時から、皇室とは関係が深く、社殿の修理などの際には、朝廷よりの奉幣の儀が度々あり、神社の記録によれば、1238年(嘉禎4年)の修理、1401年(応永8年)の再建、1442年(嘉吉2年)の屋根の葺き替えの時には朝廷より特使の参向があった。一般的にいえば、天神=菅原道真のイメージが強くあるが、ここの神社は、それ以前の天神(あまつかみ)の形を保っている。尤も、この神社も1872年(明治5年)菅原道真を合祀している。 交野天神社本殿は、一間社流造(いっけんしゃながれつくり)、檜皮葺(ひわだぶき)で、鎌倉時代の嘉禎4年(1238)と室町時代の応永9年(1402)に修理され、嘉吉2年(1442)鎧葺(よろいぶき)を檜皮葺に改めた。全体の外観は雄大な手法で鎌倉時代の様式を残し、蟇股(かえるまた)等の彫刻は、繊細で美しいものが多く、室町時代初期の特色を備えている。
【末社八幡神社】 誉田和気命(ほむたわけのみこと)を祀る末社八幡神社本殿は、造営年代は交野天神社よりやや下がるもので、小規模で簡素な造りになっている。 構造や形状は交野天神社に等しく、向拝(こうはい)の蟇股(かえるまた)や欄間(らんま)の透彫(すかしぼり)に見るべきものがある。
【末社貴船神社】 継体天皇が即位した樟葉宮の宮跡を祈念するために、当地の氏神である高?神(たかおかみのかみ)をこの地に移して祀ったのが当社の起源といわれている。 貴船神社は、また雨乞いの神様で、旱天の時に雨乞いの祈りをすると、慈雨が降ったと言い伝えられている。 社殿は、建立年代は不明だが、一間社流造(いっけんしゃながれつくり)、檜皮葺(ひわだぶき)で、建築様式から桃山時代に遡る遺構と見られる。平成16年4月1日枚方市の有形文化財に指定されている。 関白左大臣 くもらしな 真澄の鏡 かけそふる 樟葉の宮の 春の夜の月
【その他】
【取材後の感想】
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