百済寺址史跡公園の向かいに中宮病院がある。大阪府立精神医療センターがあり地域の心の病に対応する大切な拠点だ。307号線をさらに少しゆくと松丘町の交差点がありこの交差点から弓なりの道が中宮本町に伸びている。
今は平和な住宅団地に変身している中宮団地の辺りに、明治29年日本陸軍は禁野火薬庫を設置し、昭和13年に枚方兵器製造所を設置、そして昭和14年3月1日に禁野火薬庫大爆発が起こりました。この事故で死者94名、負傷者604名、被災4425世帯という大きな被害を出しました。
当時の旧国鉄片町線は軍用に利用され、津田から禁野火薬製造所まで弾薬輸送用の鉄道引き込み線がありました。現在の大阪城公園の中には陸軍砲兵工廠があり、そこと結ばれていたのです。その引き込み線の廃線址の道が、国道307号とこの弓なりの道です。1956(S31)年、禁野火薬庫跡は中宮団地に生まれ変わりましたが、枚方市は、この惨事を忘れてはならないと、爆発から50年を経た平成元年に3月1日を「枚方市平和の日」に制定。平成3年(1991)には、禁野火薬庫や枚方製造所から砲弾などを運んだ軍用鉄道敷を「中宮平和ロード」として整備しました。
整備にあたっては中央に歩道を設け、利用される人々が安全に通行できるよう配慮をするとともに、平和を願うシンボルとして様々なモニュメントが設置されています。南側から入ると中央歩道には、永遠の平和、世界のすべてを包む大きなしあわせ、愛らしい子ども達の上にいつも太陽が輝いていますようにと「子どもの群像」があります。続いて埴輪の模型がおかれ、気候風土に恵まれた枚方に太古の昔より様々な人々が居を構え、その跡を残したおおらかに広がる古代の夢を、今も私たちに伝えてくれます。百済王敬福が住んだ地を思いデザインした東屋、三十石舟をデザインしたバーゴラ、この鉄道敷を走ったSLを模したトリレスなどの夢ある造形が設置されています。また当時あった火の見櫓、コンクリート製の軍用電柱と陸軍用地の石柱などが残されている。
中宮本町のこの道の出口は、小松製作所だったが、マンションと関西外大の中宮校舎になっている。中宮団地の中をさらに北上すると、中宮浄水所のすぐ横の公団中宮団地に旧陸軍禁野火薬庫址の土塁が残され、平和のシンボルとしての記念モニュメントがある。
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