京阪光禅寺駅から香里園駅のほうへ500mほどいった線路脇に「御社蹉だ神社」の石碑がある。南中振2丁目との小さい踏み切りの向こうからさだ神社境内までの200mほどの参道が愛称道路になっている。
蹉だ神社(『だ』は足偏に它)は、縁起によると、901年(昌泰4年)2月、菅原道真が太宰府に左遷の途中、娘の苅谷姫は父を見送るためにこの地まで来たが、道真は既に出発した後で逢う事が出来ず、足ずり(さだ)して嘆き悲しんだので、この旧跡を「蹉だ山」と名づけられた。
951年(天暦6年)道真が自ら作った木座像を、村人がこの蹉だ山に社殿を造営し、祀ったのが神社の始まりである。
もともと境内には聖徳太子開基の伝承をもつ龍光寺があり、さだ神社の宮寺として明治初年の神仏分離令まで存続した。本尊の聖観音像や正和2年(1313年)の裏書きを持つ大涅槃図などは南隣の浄土院に移されている。
神社は1614年(慶長19年)大坂冬の陣の兵火により社殿は焼失したが、ご神体は無事であったため再建され[現在の社殿は1889年(明治22年)の改築]、現在に至っている。
この神社には氏子の祭祀組織である宮座が、茄子作の春日神社、津田の春日神社と同様に残っている神社で、祭礼は宮座によって厳粛に執り行われています。取材の乙酉の正月2日には地元の参拝客で賑っていました。
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