(第6回)

"古文書研究"

  枚方市茄子作北町在住 嶋田三郎様
2003年7月13日&11月/26日 取材


<写真をクリックすると大きく表示されます>


嶋田三郎さん
メセナ枚方
大塩平八郎檄文
浄土宗来雲寺
来雲寺の境内
来雲寺鐘楼
十三仏
厳島神社
立派なお屋敷が並ぶ
古文書解読から見える枚方の歴史
古文書学習会
大塩事件古文書
代表者で講師の嶋田さん

 枚方メセナの会議室の一つで、難解な古文書を一つずつ解きほぐすように解読されているグループがあった。枚方市の古文書講座中級を修了され、古文書から読める歴史の面白さに引かれて、 自主的な古文書学習を続けられているグループだった。
  この会は古文書を学習したい人を対象に、平成14年1月から毎月第二日曜日に開催されている古文書学習会で、その代表者で講師は、松愛会枚方南支部会員の嶋田三郎さんだった。 嶋田さんが、この7年間で得た古文書解読のノウハウを短期間で伝えようと企画された学習会で21名の受講生が居られた。(受講は年間11回、会費約3000円−資料代、会場費、通信費など)
 
 当日のテーマは「大塩事件評定記録」(国立資料館蔵)で、大塩平八郎に師事していた枚方尊延寺村の深尾才次郎という若者が、村人を引き連れ一揆に参加した顛末が記されたもので、一揆に間に合わなかったが100名を越える村人が処罰され、本人も自害したが塩詰の死体を市中引き回しにされ磔刑にされている。

尊延寺村を訪ねる

尊延寺の高台
 のどかな秋の陽射しの尊延寺に、取材に伺った。尊延寺は枚方市の東の端の信貴生駒山系の北の山麓にある今も静かな風情がただよう村落でした。
  厳島神社(春日神社)の隣にある来雲寺に向かった。 舞い散るイチョウの落ち葉を清掃されていたお寺の方から親切に深尾才次郎にまつわるお話を伺うことが出来た。 この鐘楼が打ち鳴らされ村人が集まった本堂で、世直しとも言える一揆への参加を決めたのだろうと感慨深く眺めた。またこの寺の本堂からは深尾才次郎一家の位牌が近年になって見つかっている。
尊延寺
曽延寺のお医者さん
来雲寺本堂
来雲寺本堂
来雲寺
深尾姓のお屋敷が多い
大塩中斎遺跡の碑
 神社の南側には村の共同墓地があり、深尾一族の沢山の墓石が並ぶ蔭に、深尾才次郎と母のぶ、兄治兵衛の墓碑がひっそりとあり、明治期に治兵衛家を継いだ深尾太良氏の建立と思われる。 長い間、逆賊として肩身の狭い思いをされた一族や、わけも判らず参加した村の多くの若者に思いをはせる。
 
 治兵衛家の屋敷跡(正太郎屋敷と呼ばれていた)には大塩平八郎中斎の碑(大塩中斎遺跡)がある。307号線からすぐ北の高台にあり、周囲には今も深尾一族の立派なお屋敷が並んでいる。
 
 大塩事件は、天保8年(1837)2月19日早朝、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者であった大塩平八郎中斎が、飢饉の最中に幕府の役人と大坂の豪商の癒着や不正を断罪し、摂河泉播地域の窮民救済を求め、幕政の刷新を期して決起した事件である。
 
 奉行所の与力・同心やその子弟、近隣の豪農とそのもとに組織された農民ら約300人を率いて「救民」の旗をひるがえし、天満の自宅から大坂城をめざしたが、わずか半日で鎮圧された。乱による火災は「大塩焼け」といわれ、市中の5分の1を焼失した。
 
 当時配布された「檄文」は大名から民衆まで密かに伝わり、また、乱の情報は、大塩父子がしばらく潜伏し手配されたため、全国に広く伝わり、幕藩体制に大きな衝撃を与えた。明治維新の30年前である。
乱の参加者はほとんど捕らえられ、獄中で死亡した者が多かった。



古文書研究への思い

 嶋田さんが古文書と取り組み始めた動機は、30年暮らした枚方市の歴史を知ろうと市史を購入して読み、枚方宿関係の文書の展示を見て古文書の存在を知ってからとのことでした。市の古文書講座、初級、中級と受講され、さらに継続的に研究しようと15名の仲間と勉強会を発足させ、平成8年から月2回の例会を続け、この7年間で150回を越えている。
 
 古文書の資料は、市が保存管理する市域より集めたものを提供してもらっており、現在取り組んでいる『永井御用記』は、市が昨年購入したもので、解読文を市に提供しておられる。
 枚方市以外でも京都府立資料館主催の古文書講習会(年4回)、NHK学園の通信教育や夏期講習への参加。毎日カルチャーセンター「古文書研究科」への参加など、個人的に努力を重ねておられる。現在は生涯学習インストラクターとして2級の資格を持っておられるが、1級を目指して勉強中とのことだ。
 今後も市民の古文書学習への支援、北河内地区の仲間との交流、枚方市域の未解読や未発掘の古文書の解読に携わり、枚方市の歴史の解明に役立ちたいとの抱負を語っていただいた。 
深尾才次郎の墓


戻る