第11話『夜歩き地蔵』

枚方に伝承される「枚方宿・人々の心を支えて・・」というお話

2017年10月1日

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 私たちの町枚方には、語り継がれた多くの昔話があります。枚方市ではそのような昔話を「枚方市伝承文化保存懇話会」のもとで、 次世代に伝承し易くまとめられました。そこで枚方発見の新企画として、伝えられている民話を一話づつ紹介するとともに、 その時代に枚方市ではどんな事があったのかを、史跡などを訪ねながら紹介していきたいと思います。 尚、昔話の内容は、市発行の記念誌や刊行物(注:文末に参考資料を記載)を参考にして作成致しました。 今回は第11回目として、「夜歩き地蔵」の話を紹介します。

【昔話】枚方宿・人々の心を支えて

 400年ほど前の江戸時代から、京~大阪の“京街道”を含む「東海道」が通り「枚方宿」が置かれていました。 街道では、紀州の殿様の二千~三千人の豪華な大名行列が有名で、農業を休んで見物に来た人もあったそうです。

 京阪・枚方公園駅の北がわあたりに臺鏡寺(台鏡寺)(だいきょうじ)というお寺があり、 境内には夜歩き地蔵がまつられています。宿場町の人や店で働く人たちが地蔵さんにお参りして、よい報告や願い事や悩みの相談のお祈りをしました。が、 地蔵さんはこの人たちの思いをしっかり聞き入れ、心を支えてあげるしかできません。そこで、夜更けに宿場町を歩き、仏である自分の修行と、宿場町の人たちが 幸せな日が送れるように、祈りを込めて歩かれたので、衣のすそや足元が汚れてしまったということです。この夜歩き地蔵さんと深く関わりのあるのは、 何十軒もの旅籠屋で働く飯盛り女の娘たちでした。家が貧しいために借金をして、その代わりに何年間かを約束して働かなければならない幸せ薄い人のことです。 店に出て「おいしい、”くらわんか餅”で一服を」と呼びかける手伝いなどをしました。

 飯盛り女の中に、こんな話があります。ある旅籠屋に、「おえい」という十七歳の娘が働いていました。そこへ、農家の新七という息子が昼食を食べに来て、 たちまち「おえい」と仲良くなりました。二人は、夫婦になりたいと思うようになりましたが、「おえい」の大金の借金を旅籠屋に返す力などありません。 そこで、一緒になるには天国で自由になるしかないと、淀川の川原で差し違えましたが、新七は浅い傷だけで助けられました。でも、奉行所からきついおとがめを受け斬首されました。 あくる日は、地蔵さんの前で飯盛り女が集まり、泣きながら二人の弔いをしていたとのことです。今も地蔵さんは世の中の移り変わりを見つめ、枚方宿を守り続けています。

●臺鏡寺(台鏡寺)について●

 臺鏡寺の開基は、元禄9年(1696)の『浄土宗寺院由緒書』によると、永禄2年(1559)に賢蓮社聖譽願生の開基による。 願生上人は山城の生まれで、宇治平等院で剃髪し、鎌倉光明寺で修学すること10余年、天正年間の末(1950年前後)に山城大念寺に住した後、 河内国茨田郡枚方に臺鏡寺を起こしました。
 今回、取材で臺鏡寺を訪れ、第19代住職の西浦道哉様から直接にお話がきくことができ、境内に安置されている地蔵尊石像は「結縁地蔵」として有名で、 昔話のように枚方宿の遊女たちの参詣で賑わったということです。お地蔵さんの覆堂は、宝暦8年(1758)に作られたそうです。かっては、 知恩院の触頭(ふれがしら)でもあったそうです。さらに近年の枚方市の調査により、建物の歴史がわかったり、享保年間の鬼瓦などが見つかったそうです。


●「枚方宿」について●

 淀川と万年寺山に挟まれて、どこからも、誰からも襲われない安全な場所で、岡新町、岡、三矢、泥町の四ヶ村が枚方宿とされた。 枚方宿からは京都へ六里、江戸へ百二十八里、大坂へ五里の位置にある。東見付から西見付まで、東西13町1間(1447m)、道幅2間半(4.5m)。北側の淀川と 南側の枚方丘陵の西端にあたる万年寺山に挟まれた地域に東西に細長く続いていた。三矢村が宿の中心にあたり、宿場には 本陣(池尻善兵衛家)、 家老専用本陣1軒(中島九右衛門家)、脇本陣2軒、問屋場(といやば)2ヶ所、旅籠は大17軒中18軒小20軒の合計55軒、 船宿、茶屋、寺院、民家が軒を連ね、高札場3ヶ所、郷蔵4ヶ所、船番所2ヶ所、紀州侯七里飛脚小屋、町飛脚などがあった。問屋場では人足100人、 馬100頭が常備され、民家は378軒あったという。そのうえ大勢の場合は寺にも泊まることができるように考えるなど、いろいろな準備がなされていました。
 さらに、大名行列のために、宿場町には「助郷」の制度が置かれていました。人百人、馬百頭がいつも準備されていました。が、次の宿場町まで人や物を運ぶのに、 これ以上必要な場合は、宿場町の周りの「助郷(すけごう)」に決められている村々から応援を出しました。 枚方宿は、もう一つの特長があり、江戸や京へ上る旅人は、泊まったり食事をして宿場町を利用したのですが、下りには、ほとんどが淀川の船を利用し、 枚方宿が使われなかったことです。そのため「片宿」ともいわれました。

●感 想●

 西浦住職の取材を通じて、台鏡寺の枚方宿での位置づけ・関わり、台鏡寺の歴史の長さを感じました。また、住職自身も、 「ひらかた昔ばなし」「枚方風土記」の編集にも関わっておられびくりしました。
「枚方の民話」の準備を早くからしていたので、余裕をもって作れましたが、写真が揃わず苦労しました。昔話の内容が少なかったので、 昔話の舞台となった、「京街道」の内容も含めました。枚方市観光ボランティアの西村さん(7班)に「京街道」の説明を聞きながら、散策しているとき、 『枚方宿』が、京都と大阪を結ぶ「東海道56番目の宿」として?栄していたころの様子が目に浮かびました。
 最後に、10月20日(金)~22日(日)、に、旧京街道 枚方宿「東見附」から「西見附」で、市制70周年記念事業の一環として 「ひらかたまちかど空間 アートフェスティバル」が開催されます。興味のある方は、ぜひ、お出かけください
枚方発見チーム 坂本、福本、永井、中村、松島 HP作成:松島  

参考資料

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