2017年10月1日
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【昔話】枚方宿・人々の心を支えて
400年ほど前の江戸時代から、京~大阪の“京街道”を含む「東海道」が通り「枚方宿」が置かれていました。 街道では、紀州の殿様の二千~三千人の豪華な大名行列が有名で、農業を休んで見物に来た人もあったそうです。
京阪・枚方公園駅の北がわあたりに臺鏡寺(台鏡寺)(だいきょうじ)というお寺があり、 境内には夜歩き地蔵がまつられています。宿場町の人や店で働く人たちが地蔵さんにお参りして、よい報告や願い事や悩みの相談のお祈りをしました。が、 地蔵さんはこの人たちの思いをしっかり聞き入れ、心を支えてあげるしかできません。そこで、夜更けに宿場町を歩き、仏である自分の修行と、宿場町の人たちが 幸せな日が送れるように、祈りを込めて歩かれたので、衣のすそや足元が汚れてしまったということです。この夜歩き地蔵さんと深く関わりのあるのは、 何十軒もの旅籠屋で働く飯盛り女の娘たちでした。家が貧しいために借金をして、その代わりに何年間かを約束して働かなければならない幸せ薄い人のことです。 店に出て「おいしい、”くらわんか餅”で一服を」と呼びかける手伝いなどをしました。
飯盛り女の中に、こんな話があります。ある旅籠屋に、「おえい」という十七歳の娘が働いていました。そこへ、農家の新七という息子が昼食を食べに来て、 たちまち「おえい」と仲良くなりました。二人は、夫婦になりたいと思うようになりましたが、「おえい」の大金の借金を旅籠屋に返す力などありません。 そこで、一緒になるには天国で自由になるしかないと、淀川の川原で差し違えましたが、新七は浅い傷だけで助けられました。でも、奉行所からきついおとがめを受け斬首されました。 あくる日は、地蔵さんの前で飯盛り女が集まり、泣きながら二人の弔いをしていたとのことです。今も地蔵さんは世の中の移り変わりを見つめ、枚方宿を守り続けています。
●臺鏡寺(台鏡寺)について●
●「枚方宿」について●
淀川と万年寺山に挟まれて、どこからも、誰からも襲われない安全な場所で、岡新町、岡、三矢、泥町の四ヶ村が枚方宿とされた。
枚方宿からは京都へ六里、江戸へ百二十八里、大坂へ五里の位置にある。東見付から西見付まで、東西13町1間(1447m)、道幅2間半(4.5m)。北側の淀川と
南側の枚方丘陵の西端にあたる万年寺山に挟まれた地域に東西に細長く続いていた。三矢村が宿の中心にあたり、宿場には 本陣(池尻善兵衛家)、
家老専用本陣1軒(中島九右衛門家)、脇本陣2軒、問屋場(といやば)2ヶ所、旅籠は大17軒中18軒小20軒の合計55軒、
船宿、茶屋、寺院、民家が軒を連ね、高札場3ヶ所、郷蔵4ヶ所、船番所2ヶ所、紀州侯七里飛脚小屋、町飛脚などがあった。問屋場では人足100人、
馬100頭が常備され、民家は378軒あったという。そのうえ大勢の場合は寺にも泊まることができるように考えるなど、いろいろな準備がなされていました。
さらに、大名行列のために、宿場町には「助郷」の制度が置かれていました。人百人、馬百頭がいつも準備されていました。が、次の宿場町まで人や物を運ぶのに、
これ以上必要な場合は、宿場町の周りの「助郷(すけごう)」に決められている村々から応援を出しました。
枚方宿は、もう一つの特長があり、江戸や京へ上る旅人は、泊まったり食事をして宿場町を利用したのですが、下りには、ほとんどが淀川の船を利用し、
枚方宿が使われなかったことです。そのため「片宿」ともいわれました。
●感 想●