2015年10月1日
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古事記・日本書紀によると、「王仁博士」は4世紀の末頃 応神天皇の招請で、古代朝鮮半島百済の国から、論語十巻・千字文一巻を携え、日本に渡来した。朝廷の人達に学問を教え、儒教と漢字を最初に日本に伝えたと言われます。
年代などは定かでないが、漢字の広がりが日本文化の基礎となったことは疑う余地のないところです。江戸時代に入り京都の儒学者並川誠所が、禁野の和田寺にあった古文書の記録から、交野郡藤坂村御墓谷(現在の藤阪東町)にある円形型の自然石が昔から「オニ墓」とよばれ、祀られていることが判り「王仁博士の墓」と考証しました。1938年(昭和13年)大阪府史跡「伝王仁墓」に指定されました。1940年(昭和15年)墓域周辺に玉垣を造営。現在、墓碑のまわりには韓国から取り寄せた『むくげ』の樹が200本余植えられ6月下旬~10月上旬まで特に7月は白やピンク、一重の底紅・八重の花など色とりどりに咲き乱れます。
韓国風の休憩所には、「王仁博士」の生誕地、大韓民国・全羅南道霊岩郡の王仁廟の写真を展示し「王仁文化祝祭」の様子など伺うことができます。王仁塚の環境を守る会は、1987年(昭和62年)大韓民国
全羅南道霊岩郡に王仁廟が竣工されて以来交流を続け、その長年の交流が実り、2008年(平成20年)3月1日に枚方市と霊岩郡との友好都市提携が実現しました。
【昔話】王仁博士・・・・・日本の漢字の始まり
これは、400年ごろから始まった話です。このころは、朝鮮の百済の国から海を渡って、日本へ、次々と人が移り住みました。
そして、蚕の飼い方・酒の作り方・家や道具を造る大工の技術など、暮らしに必要な進んだ文化をいろいろ伝えました。おす馬・めす馬の名馬二頭をみつぎ物にしてやって来た「阿直岐」という学者も、その中の一人です。
皇子に学問を教えたりしていると、天皇に「百済の国に、阿直岐よりすぐれた学者はいるだろうか」とたずねられ、その場で「王仁博士という、すぐれた学者がいます」と答えました。
天皇は二人の使者を送り、百済の王様に、「王仁博士に、日本で学問を教えてもらえないでしょうか」とたのみました。それを聞いた王仁博士は、日本へ行くともう帰れないかもしれないと思い、ずいぶんまよいました。
すると、王様は「日本へ、この土産を持って行き、学問を広めるとよい」とすすめられ、「論語十巻」と「千字文一巻」をわたされました。
王仁博士は、日本に着くと、皇子や朝廷の人たちに学問や文字を教え、政治の記録などの仕事もしました。
しかし、心の中ではふる里の百済がなつかしく、仕事になれると、同じ百済から移り住んだ人の多い交野地方を、度々訪れて過ごしたようです。「こんにちは。いらっしゃいませ」「暮らしに不自由はありませんか」など声をかけられ、励まされました。
落ち着いた王仁博士は結婚し、子や孫がたくさんでき、この人たちも学問を教えたり、文字を書く仕事をしたりして「河内の文氏」といわれました。
「論語十巻」「千字文一巻」が伝えられた日本では、木の板の”木簡”や紙に漢字が使われるようになり広がっていきました。奈良時代になると、「古事記」や「日本書紀」の歴史が書き表されました。
そして、平安時代には片仮名・平仮名・変体仮名の日本文字も生まれて、漢字はしっかり根づいていきました。しかし、博士のことはすっかり忘れられていきました。
ところが、1000年も過ぎた江戸時代に、並川誠所という学者が、「漢字を伝えてもらった論語と千字文は、人の生き方の手本にもなる」と博士に感謝して、禁野村・和田寺の古文書から、藤阪(藤坂)のお墓をやっと探しあてました。
それ以来、この場所は、王仁博士の墓としてまつられています。王仁博士とこうした縁があって、枚方では「漢字まつり」が行われるようになりました。毎年8月に「むくげ盆まつり」が行われ、韓国の博士が生まれた”霊巌”とも市民交流を深めています。
(完)
【この頃の枚方(古墳時代中期)百済王と枚方の関係】
四世紀末、大和朝廷は朝鮮半島の百済・新羅・任那を従え、属国のように支配していました。これらの国から得た戦利品・貢納物や帰化人などが朝廷の実力と権威を高めた。
大和の三輪地方に発祥した朝廷が、河内に勃興した大王家によってとってかわられたとする考えが出されており「古事記」「日本書紀」における神武天皇の朝鮮半島侵略に伴い、海人集団を支配下に組織して成長した河内大王家(応神天皇が始祖)が三輪の大王家を倒す大内乱が起こり四世紀末の応神朝以降を河内王朝としてとらえられます。
中国大陸北部や朝鮮半島には肥沃な土地が少なく、人々が温暖でより住みやすい土地を求めて南下してきたのが交流の始まりです。この活動に、中国大陸や朝鮮半島での政変を受けて、その迫害から逃れて日本に庇護を求めてやってきた人たちの動きが加わり、地政学的に交流が頻繁になっていきました。
中国の隋・唐王朝の政治的圧力により、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が興亡をを繰り返しその戦いに敗れた人たちが同盟国である、平和な日本を頼りに来朝し、日本の大和朝廷に庇護を求めました。多くは大和朝廷の臣下に迎えられ、日本の各地に定着し、日本民族に同化していきました。
この潮流の中で、大和朝廷の臣下となり僻地の東北地方に赴任していた百済国宗家の子孫の集団が赴任地で金を採掘し聖武天皇の大仏建立時に、黄金900両献上しました。その褒美としてこの河内国(枚方市中宮)が与えられました。
●感想●
・ 大坂城跡と並び大阪府内に2つしかない国の特別史跡「百済寺跡」は、百済国王の末裔が 建立した寺院跡として有名な様に、400年ごろの日本と百済は友好関係ができていたと
推測できます。
・現在は経熱政冷と表現されるように、経済の熱い関係に対して、政治の関係は冷え切っています。 視点をどこに置くかで、変わるのでしょう。日本の漢字の始まりを調べていて、王仁博士のように
日本の発展に貢献された方が、大勢おられることを知りました。 そのベースが枚方にあり、王仁公園や王仁プールの名称で、市民に親しまれている事が嬉しく思います。
・ いろいろ調べていくと、王仁博士のお墓が、東京上野公園の清水観音堂の裏手にあり、 5世紀初、日本に『論語』『千字文』を伝えたという百済人・王仁を記念して建てられた「王仁博士記念碑」と、
その由来を記した碑があります。大阪市北区大淀中3丁目の八阪神社内にも王仁神社があり敬愛されていた事が解ります。
・近くの香里ケ丘図書館や、枚方中央図書館にも、枚方に関する資料が数百冊整備されていることを初めて知りました。時間を見つけて勉強できる環境があり、
同時に枚方に住んでいることに誇りを感じることが出来たのが、大きな成果です。
「おいでやす枚方に!」
・今までの2つの民話と違って、かなり信憑性があり、また情報が多すぎてまとめるのに少し苦労しました。
枚方発見チーム 坂本、福本、中村、松島、永井 HP作成:永井