第1話『 鈴見の松と別子山の物語 』

・・枚方に伝承される鶴の恩返し・・

2015年4月1日(水)

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 私たちの町枚方には、語り継がれた多くの昔話があります。枚方市ではそのような昔話を「枚方市伝承文化保存懇話会」のもとで、次世代に伝承し易くまとめられました。そこで枚方発見の新企画として、伝えられている民話を一話づつ紹介するとともに、その時代に枚方市ではどんな事があったのかを、史跡などを訪ねながら紹介していきたいと思います。 尚、昔話の内容は、市発行の記念誌や刊行物(注:文末に参考資料を記載)を参考にして作成致しました。
 今回は第一回目として、「鈴見の松と別子山」の話を紹介します。

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物語の舞台となった枚方市駅周辺
 京阪電車・枚方市駅の南西に小高い丘があり、中腹にキリスト教会の2つの尖った屋根が見えますが、隣の万年寺山と繋がっているこの周辺が今回の舞台です。

 今から1350年以上も昔に遡りますが、現在の枚方市岡南町にあった丘の麓(写真は現在の風景)に、孝行息子の鈴見という若者が住んでいました。父とは早くに死に別れ年老いた母と二人で暮らしておりました。
 ところが、母は病に伏せっていたため、鈴見は一生懸命面倒を見ていました。

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万年寺山と尾根続きの別子山
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山頂より枚方駅方面(S30年頃)
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同じ位置から現在の風景

挿絵
 当然、適齢期でありながら、看病に追われて結婚も叶わず、母はそれを気にしていましたが、鈴見は全く気にすることも無く、貧乏で母に十分な治療が出来ていない事を悔いるのでありました。

 ある日のこと、鈴見は交野の農家に雇われ、もらった日当を懐に、天の川沿いの道を我が家へと急いでいた時、河原で5~6人の子供達が一匹の鶴を捕まえて苛めておりました。鈴見は「こら、そんなかわいそうな事をしてはあかんよ。すぐに逃がしてやり。」と言うと、「おっちゃん、助けたかったら買ってぇや。」と言うのである。その額は懐を見透かしたように、今日頂いた日当と同額であります。この金で母に滋養のある物でも買ってやるつもりであったので、大いに迷いましたが、鶴が不憫であったので思い切って「よっしゃ、その鶴を買おう。」と言って子供から鶴を受け取ると、怪我が酷くとても飛ぶ状態でありません。そこで鶴を家に連れて帰り、数日間懸命に手当てをしてやった後、丘の頂きで「どうか母の病気がよくなりますように・・」と鶴を大空に離してやりました。

 その後も母の病状は変わらず、看病に追われる日々が続いておりました。
 そんな時、鈴見の家に美しく気品のある一人の娘さんが訪ね、「私にお母さんのお世話をさせてください。」と言って、甲斐甲斐しく母の看病を始めました。お蔭で母は、すっかり元気を取り戻しました。

 時は流れ、母の没後に二人は夫婦となり、男の子が生まれ、元気にすくすくと成長しました。 男の子が5歳になったある日、鈴見の妻は子供を連れ、かつて鈴見に放してもらった山頂に登り、「私はもともと天女なのです。このまま仲良く三人で暮らしたいが、天上界の掟があり、今日天に帰らなければなりません。お父さんにこの事を伝えておくれ。」と言って、泣いて止める子供の上を何度も回りながら、天に帰って行きました。それを伝えると、鈴見は「そうか・・・」と言って子供を抱きしめ、涙を流すのでありました。
 やがてこの話は都の聖徳太子の耳に入り、感動された太子は自作の地蔵尊をお授けになりました。鈴見はこの地蔵尊を大切にし、深く帰依したところ、大変なお金持ちになり、父子共に百年長生の幸せな生涯を送ったと伝えられています。その後、この丘を「別子山」「鈴見が丘」と呼ぶようになりました。(完)

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大切に保存されてきた鈴見が松
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かつて鈴見が松のあった付近
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現在の鈴見が松と名札
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鈴見地蔵尊縁起を所蔵・一乗寺
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一乗寺山門左の地蔵堂
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別子山より万年寺山を望む
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在りし日の別子山(鈴見が岡)
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山頂付近の樹齢500年の椋の木

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万年寺の跡・十三重の塔
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貴船神社と樟葉宮跡の石碑
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継体天皇樟葉宮跡の石碑

【この頃の枚方市(西暦600年頃)】

 この民話は、聖徳太子(574年~622年)から地蔵尊を授かったという伝承から、時代は西暦600年の頃の飛鳥時代と推察されます。
2015年1月15日には奈良の明日香村・小山田遺跡で日本最大級の方墳(四角の古墳)が発見され、34代「舒明天皇」が最初に葬られた場所の可能性が高いと、大騒ぎになりました。
 今回の民話は、その時代から一代遡り日本で初めての女性天皇である、33代「推古天皇」の頃、聖徳太子が摂政として活躍された時代であります。枚方の八景にもなっている「万年寺」は、この時代に高麗によって「草庵」が営まれたのが始まりと伝えられています。その他枚方市で記録に残っている主な出来事と、その史跡を訪ねてみました。
★樟葉宮・・・枚方市樟葉丘2丁目★
 『日本書紀』によると、越前三国にいた男大迹王(おおどのおう)が樟葉で西暦507年に即位されて第26代継体天皇となり、5年にわたり宮を営んだと記されています。 樟葉宮跡の位置は不明ですが、交野天神社の末社・貴船神社が鎮座する付近が推定地とされ、その麓に「 此附近継體天皇樟葉宮址 」「継體天皇樟葉宮跡伝承地」などの石碑が建っています。(昭和4年大阪府が建立、昭和46年に大阪府文化財保護条例により史跡に指定)
★片埜神社・・・枚方市牧野阪2丁目★
 30代欽明天皇(567年)の勅願をもって片神社と称され、延喜式内社の古社であります。素盞嗚尊、菅原道真公を主神として他十一柱の神々が奉祀されています。特に本殿は、桃山建築の粋として、国の重要文化財に指定されています。また周辺は桜の名所でもあります。 (枚方の神社・第10回片埜神社参照)
★九頭神(葛上)廃寺・・・枚方市牧野本町1丁目★
 北河内で最も古い寺院跡として瓦など多くが出土され、現在は住宅地内の史跡公園として保存されています。屋根瓦などがこの地で作られ、奈良や京都の多くの寺の屋根にも使われていることもあり、当時聖徳太子が建立した法隆寺など7つのお寺の中で唯一所在が分っていない「葛上寺」ではないかと言う説もあります。【角川地名大辞典・大阪編 424頁】
 この地の南西には、同じ頃に久須須美神社が存在していましたが、現在は片埜神社に合祀され、その場所と思われる所には大小2つの祠(ほこら)が残っておりました。
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国の重要文化財・片埜神社本殿
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九頭神廃寺の史跡公園
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公園内の九頭神廃寺史跡の説明
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大小2つの古い祠

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日本最古の羽衣伝説が残る余呉湖の天女像(yahooフリー画像より)
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住宅地に変わった鈴見が岡

●まとめ●

 天女・羽衣にまつわる伝説は、日本の各地で言い伝えられ、内容も何通りかに分類できますが、枚方の物語はその中で天女鶴女房・昇天型であり、伝承の始まりは滋賀県余呉湖とも言われています。この鶴は天上界の住人で、仏教が伝来(538年)した日本が良い国になったと聞き、検証に来たのだとの説もあります。鈴見が住んでいたとされる、現在の枚方信用金庫付近には古い松が残っておりました。松は元来長寿の神として認識され、天上界との繋がりを持つものと思われていましたので、長い間「鈴見が松」として大切に保存されていましたが、道路の拡張や、台風によってついに枯れてしまいました。それを惜しんで、今でも一乗寺の近くの公園に(見つけるのに苦労するが・・)名札が付けられてひっそりと残っております。

 さて、この物語の中で天女がわが子と別れを惜しんだ山を、その後「別子山」あるいは「鈴見の岡」とも呼ぶようになり、当時は万年寺山と繋がっており、標高40メートルの頂上からは、淀川や天の川を見通せる断崖であったと思われます。
 しかし、昭和15年の淀川堤防の嵩上げで、別子山の上部は削り取られ、東側の宮の坂近辺の天の川迄レールが敷かれ、川原を利用して淀川へと運ばれました。従って、現在はずいぶん低くなり、静かな住宅地へと変わっています。この地域は枚方宿としてにぎわった地域でもあり、工事中には貴重な埋蔵文化財が出土されたと言われています。

 散策した日は雲一つない晴天で、探していた二代目の「鈴見が松」を発見出来たこともあり、何となく「鶴の恩返し」を頭に浮かべながら、穏やかな気持ちで過ごすことができた一時でありました。

枚方発見チーム 中村、永井、福本、坂本  HP作成:坂本  

 参考資料
   ・枚方風土記 昭和62年8月1日初版 発行者:枚方市企画部企画調査室
   ・枚方散歩 シリーズ1 発行者:枚方新聞社 昭和39年3月初版
   ・ひらかたの昔ばなし(総集編)平成16年3月31日 発行:枚方市 企画編集:枚方市伝承文化保存懇話会記録冊子
   ・目で見る 枚方・交野の100年 郷土出版社 1995年発行

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