『伝統の職人芸 枚方菊人形』 (第2回)
枚方市の花「菊」
枚方市の花は1962年に「菊」に制定された。これは枚方市の伝統的芸術「菊人形」と結びつきが深く、土地が栽培にも適しているからという。 枚方市役所のすぐ横には今年も市民が栽培した「菊花展」が盛大に開催されている。
第90回「枚方大菊人形」が源氏物語をテーマに、この秋も「ひらパー(枚方パーク)」で始まった。枚方菊人形は明治43年(1910)の秋、京阪電車の開通を祝って、香里遊園地(聖母女学院辺り)へ東京で人気のあった菊人形を持ってきたのが最初のようだ。大正元年(1912)第3回から現在地にうつされた。枚方生まれの菊人形研究者 「川井ゆう」さんの研究によると、菊を何かに見立てて栽培した造形菊がその始まりで、それが発展した菊人形第1号は天保15年(1844)の江戸巣鴨の寺院の飾り物だそうだ。
伝統を引き継ぐ枚方菊人形
江戸ではその後、団子坂で歌舞伎を菊人形にし、明治の初めからは興行として木戸銭を取った。さらに明治42年には両国国技館で名古屋菊花園の菊師が大がかりな興行を始め、団子坂が衰退した。大阪でも明治の初めから、お寺や神社、公園など各地でよしず張りの小屋で展示されたが、明治30年代の末に相次いで設立された鉄道会社が、旅客誘致のために常設館で興行を始めた。
明治43年に開業した京阪電鉄が名古屋の菊花園により香里で興行を始めた。電鉄各社が興行をあきらめていく中で京阪だけが大正元年(1912)から枚方公園に場所を移し、岐阜の浅野菊楽園が担当して東京団子坂の菊師など全国のベテランの菊師が集結して、枚方菊人形が伝統を引き継いでいった。
大正8年〜11年までは宇治で開催、昭和19年・20年は太平洋戦争で中止されたが、戦後は千里山で開催、昭和24年(第38回菊人形)から再び現在地に戻り、名実共に日本一の菊人形の伝統を引き継いでいる。
菊人形づくりの苦労
菊人形は等身大の人形で、基礎は3センチ角の木材や針金で強化し、竹ひごや巻藁を使って下地の胴殻を作る。素材の菊は人形菊という茎の柔らかな小菊で、花の周辺の葉だけ残して根はつけたまま土を払って、水苔で包み、い草で巻いて数株づつまとめて使う。1体の人形に30束程度の菊を使い、長持ちするよう根を上にして胴殻に差し込み、花を上にするため約180度、茎を折り曲げて結ぶ。この人形に頭、手足などをつけて仕上げがされる。
菊は約10日ほどしか持たないため期間中に何度も着せ替えが行われる。人形菊の栽培や飾り付けを担当されている(株)京阪園芸 栽培課長の山本さんにお聞きすると期間中に使用する花は55,000株必要で、1反の畑に3000株しか栽培出来ないとのことで、公園内の緑地と園芸の温室で約30%、残りは枚方、茨木、高槻などの農家に委託栽培されているとのことだった。
百年を越える歴史を持つ伝統職人芸が、この枚方の地で引き継がれていることに、改めて感慨と誇りを感じた取材だった。もう一度そんな視点で菊人形を見学し直した一日となった。