大塩平八郎は元天満与力で陽明学者であり、主催していた「洗心洞」の門下生に尊延寺の深尾才次郎がおりました。当時この地域の民衆は飢饉で極度に疲弊していましたが、時の支配者が何ら救済策を講じないことから「救民」に立ち上がったのが大塩平八郎でした。
挙兵は、来雲寺の鐘が定時でもないのに激しく鳴り響いた、1837年冬の事でした。かねてから加勢を決めていた才次郎は、武器を用意し村人42名と共に「尊延寺村」の幟を先頭に大阪へと出発しましたが、守口付近で大塩の敗走を知り、逃亡後無念にも自刃に果てたのであります。
わずか半日で鎮圧されたあまりに早い敗北で、戦いには間に合わなかったにも拘らず、その後の取り調べで111名もの処罰者を出し、村の大半が罪を問われたと言われています。
大塩の乱は失敗したとはいえ、幕藩体制を揺るがし、明治の到来を早めた歴史的な事件ではありましたが、尊延寺村の犠牲はあまりにも大きいものがありました。
屋敷があった一角には、昭和47年に深尾家が建立した「大塩中斎遺跡」の碑があります。
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昭和47年に建てられた碑 |
大塩平八郎遺跡の碑 |
鐘で決起を知らせた来雲寺 |
落ち着いた佇まいの尊延寺の里 |
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(写真撮影:2018/03/06) 2018/06/05 HP作成:坂本