楠葉台場跡の整備が終了し 公園として開放されています


楠葉台場の想定イラスト(作成:坂本)


遺跡調査前の台場想定位置【*1】

 枚方市の最北端に位置し、平成23年に国史跡に登録された「楠葉台場跡」が、整備工事を完了し、史跡公園として一般に開放されています。
 数年前に現地を訪れた時は工事中で、記念石碑もどこかに保管されていましたが、久々に来てみると本当にきれいに整備され、写真の石碑も元の位置に返され設置されていました。広々とした緑の広場に座ると、癒されます。皆様も一度いかがでしょうか。

【国史跡・楠葉台場跡の説明・・京都を守る幕末の関門・・】
 楠葉台場は慶応元年(1865)に江戸幕府が築造した砲台場(大砲を備えた要塞)で、設計の責任者は勝海舟でした。台場の設計図から、西洋の築城様式(稜保式)が採用され、3基の砲台や高い土塁、深い堀が設けられていたことがわかります。

 台場築造の目的は、開国を求める異国船が突如、大阪湾に現れたことから、大阪湾に近い京都(朝廷)の警備強化の一環で、淀川を遡ろうとする異国船からの防備とされています。しかし、京街道のルートを曲げて台場内部を通過させていることから、実際は関所(関門)として尊王攘夷派浪士らの京都侵入を取り締まることにありました。

 慶応4年(1868)1月大阪城から京都へ向けて進軍した旧幕府軍は鳥羽・伏見で新政府軍と衝突し、戦闘が始まりましたが、旧幕府軍は後退を続け、戦線を立て直すために橋本陣屋と楠葉台場に集結します。そこへ新政府軍に寝返った津藩(藤堂家)が淀川対岸の高浜から砲撃を加えたため、旧幕府軍は応戦したものの、退路を断たれることを恐れ、大阪へ落ち延びて行きました。その後、台場は新政府軍が接収、跡地は民間へ売り渡され、明治末ごろには姿を消したようです。 (教育委員会作成の現地説明板を転記)
【* 1】背景の航空写真は、参考文献冊子の表紙   【 写真はクリックで拡大できます。】


台場北側から現在の眺望

台場南側から現在の眺望

台場南東に立つ石碑

楠葉砲台場跡の説明板

 その他の情報もここからご覧いただけます。

  参考文献:「国史跡 楠葉台場跡」冊子 発行:枚方市教育委員会 【* 1】
       「楠葉台場跡(発掘調査報告書・本編)」発行:財団法人枚方市文化財研究調査会・枚方教育委員会

 2018/05/20 HP作成:坂本  

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