枚方の神社シリーズ 第2回 |
2012/6/27 取材 |
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関西外国語大学の穂谷学舎を左に見て長い坂道を登ると、右手にこんもりとした森が見えてきます。この一角に三之宮神社があります。参道の鳥居を抜けて拝殿,本殿へと歩をすすめると、雨乞いのお礼に奉納されたとされ「請雨御返禮」と刻まれた多くの石灯籠を見ることができます。季節は梅雨の真っ只中でありましたが、広い境内はたくさんの常緑樹が茂り、特有の霊気と重なって涼しく、且つキリッとした気持ちになりました。 拝殿、本殿に参拝し、宮司の三嶋 宏様から懇切丁寧なご説明を受けました。 【三之宮神社の概要】
三之宮神社の歴史は極めて古く、当社の社記によれば、神功皇后が西暦209年(神功皇后9年)秋、朝鮮出兵の時当地を通られたが、山が深く谷も険しくて難路であったため、天神地祇にご祈願されたところ、神様が現れ「難路故各所二物ヲ置キ導キ奉ラント告ゲ給ウ」とのお告げがあり、行軍の先々に白幣を竹筒に挟んだものを所々に置き道案内をした。そして「皇后ニ軍謀秘策ヲ告ゲ給ウ」とし、その後皇后は無事に凱旋できたことを喜ばれて幣白を寄進された。その後仁徳天皇29年(西暦341年)春、額田大中彦皇子に社殿の創建を命じられた。 孝謙天皇天平勝寶2年(西暦750年)、「息筒大明神」の神号を授け、文徳天皇仁壽2年(西暦852年)、惟喬親王を遣わされ正三位勳六等を与えられた。後冷泉天皇治歴元年(西歴1065年)正月29日、山火事によって灰となったが、8年後に再建された。後堀河天皇貞応元年(西暦1222年)9月、盗賊によってまたもや焼失したが、嘉禄2年(西暦1226年)3月、中原宗兼外當郷住の三十余人によって再興された。 その後数回の改造修復が加えられたが、慶長年間に大阪城の鬼門除けとして豊臣秀頼によって再興され、牧野阪の一之宮神社(片埜神社)、船橋本町の二之宮神社とともに交野三之宮と称した。今の社殿の元になっているのは寛永11年(西暦1634年)に再建されたものである。創建当時は息筒大明神と称され、屋形大明神、住吉大明神と呼ばれたが、鬼門除けの交野三之宮となった後は、三宮屋形大明神、三宮住吉大明神等とも呼ばれていた。尚、現在の社殿は平成4年に氏子の皆さんで完全再建したもので、まだ新しく極めて美しい神社である。
【神社のお姿】 穂谷川の源流沿いに鎮座されており、水神祭祀の神様であったことが頷ける。昔は川沿いに古道があったのかも知れないが、現在は307号線から分岐して奈良の北西部に抜ける交通の要所に位置している。緩やかではあるが山の裾野を削り、平坦にして建立されている。神社を参拝する時は、北に向くのが作法であるが、山頂が南に位置するため、入り口の鳥居から拝殿、本殿、御神体の巨石へと下がって行く。神社では通常登って行くのが多いので、このような造りは珍しい。周囲は穂谷の里山も残っており、境内は生い茂った緑とともに、地面全体に神職さんによる行き届いた箒目がついておりゆったりとした気持ちになれる。
【氏地と祭紀】 祭式は最も厳粛に行われ、当時は古軒と言われる氏子139軒の古軒者は裃帯刀で拝殿に着座して祭祀を行っていた。古軒139軒は交野三十九士の裔にして永禄年間では五ヶ郷(津田村、藤坂村、杉村、尊延寺村、穂谷村)の侍であった。三之宮神社は津田郷の総社で氏子は五ヶ郷に加えて長尾村、野村であったが、現在は津田(大峰を含む)、杉、尊延寺、穂谷となっている。祭礼では、嘉吉年間以来、住吉踊りを神前に催したが、応仁の乱で中絶、その後一度再興したが再絶した。その後雨乞いの祈願祭の時は時々行われていたが、今は完全に無くなっている。現在の氏子は約750軒とのことである。また、祭事には地車も出ていたらしいが、今は拝殿の倉庫に当時の姿で保管されている。
【屋形石】 本殿の裏に回ると玉垣で囲まれた中に大きな石が2個鎮座している。これは本殿の外に位置するが、三之宮神社の御神体である。神様が降臨され、聖なる岩として祭祀が行われるとされる磐座(いわくら)と呼ばれるものである。断面が三角形の柱を寝かした形を屋根に見立て「屋形石」と呼ばれ、「三之宮屋形大明神」の名称の元となっている。世界の中でも巨石信仰は数多くあり、いずれも謎に包まれた部分が多くロマンを誘うが、この「屋形石」も宮司様の話では成分分析の結果穂谷付近の岩石ではないとのこと、昔の人々がこの石を神として祭祀を行うシーンを想像し、神秘的なものを感じた。ただし掘り返したりする調査は禁止されているとのことであった。
【立石(伝竜王祇)】 拝殿の左に回ると、大きな樹の下に注連縄がかけられた高さ1メートル程度の「立石」がある。三之宮神社は雨乞いの神様としても崇敬が篤く、境内に千鐙を掲げ大般若経を転読して祈願した、いわゆる神仏混合であったと言われる。その名残は、宮司様に見せていただいた保管建造物の一部に書かれた文字からも確認できた。雨乞いの際、近郷五ヶ村の氏神に祈っても効果の無い時、最後の手段として村民がそろって太鼓や鐘を鳴らしながら神社に入り、御神体であるこの石を西側に流れる穂谷川に投げ落として祈願したとされ、願い叶って雨が降れば引き上げたと言われている。神社内にある多くの石灯籠はそのお礼に奉納されたもので、胴の部分に「請雨御返禮」と刻まれており、現在でもその文字がかろうじて読み取れる。 昔から、水神様が居られる所に不浄なもの(あの世では聖なるもの)を投げ入れると、神様が怒って(活性化して)雨を降らせると伝えられているが、まさにこの考えに通じるものであろう。今は出番がなく苔むして、少し寂しそうであった。
【取材後の感想】
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