2015年 枚方北支部 春のレクリエーション
『 京都御所参観と「がんこ 高瀬川二条苑」昼食会 』
2015年4月9日(木)
【 京都御苑散策と御所参観 】
●集合場所にて
賀茂大橋を渡る皆さん
最近1日毎に雨が降る日が続き、今日は晴れの日の番である。気にしながら集合場所の出町柳駅に到着。電車後方の今出川口改札口にて待つとなっていたが、電車の前から降りると人の波にのまれ、前の階段を登ってしまった人が出た改札口からは、今出川口改札口に行く道が無く、困惑されたお方が6人程度地上に出て集合場所を探す、ハプニング付の出足となりました。好天の中に総勢89名が参加され期待の大きさが伺えるスタートとなりました。89名を4グループ、A、B、C、D班に分けて行動、整然と鴨川の賀茂大橋を渡り、今出川通りから河原町通を通って京都御苑に向いました。
京都御苑の枝垂桜
「清所門」前でチェックを受ける皆さん
殿上人(でんじょうびと)の間の襖絵
「新御車寄」を参観される皆さん
●京都御苑散策
京都御苑の東北の御門(石薬師御門)を入り、一番気になる桜の咲き具合を確認、しかし、一般の桜は葉桜になっており少し時期遅れの状態でした。それでも中に進むとボタン桜や枝垂桜はまだ充分見応えが有り、各班毎に記念集合写真を撮影し、更に思い思いの撮影を楽しみながら、築地で囲まれた11万平米あると言われる御所の参観入門口、清所門(せいしょもん)の前に集合しました。
●京都御所参観
警備担当の警察官のチェックを受けて御所内に入り、最初に参観者休所にてビデオを見て事前案内説明を受け、宮内庁説明員の方のご案内で、昇殿を許された者が参内する時の玄関にあたる、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の御車寄(おくるまよせ)を皮切りに参観をスタートしました。
正式な用向きで参内した時の控え所にあたる建物が格式の高い順に「虎の間」公卿(くぎょう)の間、「鶴の間」殿上人(でんじょうびと)の間、「桜の間」諸大夫(しょだいぶ)の間と言う三室が東から西に並んでいる(一棟三間の総称として諸大夫の間を指す)三棟を参観し、格式の違いを実感しました。
新御車寄から月華門(げっかもん)前を通り、正面にあたる承明門(じょうめいもん)から、最も格式の高い正殿である紫宸殿(ししんでん)を観る、しかし遠い距離からの参観で、写真撮影でも充分に撮影できない状態だったので、もう少し開放して欲しかった。
承明門前を通過して左に曲がり、日華門(にっかもん)前を通って、紫宸殿の背後に建ち儀式として使用され、一時天皇の日常生活の場として使用された清涼殿(せいりょうでん)を観る、これで正殿の周りの主だった部分の参観と撮影を済ませました。
次に天皇が将軍や諸侯と対面され会議などをされる小御所(こごしょ)と、歌会などに使われた御学問所(おがくもんじょ)の間に挟まれたテレビでよく見かける御公家衆が蹴鞠(けまり)で遊ぶ四角い庭を鞠懸(まりかがり)蹴鞠の庭で、その東側前方には御池庭(おいけにわ)が広がり豪華さを伺わせる。
京都御所最大の御殿である御常御殿(おつねごてん)は、天皇が日常生活を営まれる清涼殿が居住様式の変化に対応できなくなったことから、豊臣秀吉の行った天正度(てんしょうど)の造営に際して建てられた別棟とのことです。年中行事に使用された御三間(おみま)の前を西に抜け、台所跡に咲く桜を観て1時間コースの参観が終了しました。最後まで宮内庁説明員のお方の解説に耳を傾け、大いに歴史を偲び桜の鑑賞と撮影を楽しんだ有意義な参観でした。
●京都御所の歴史
桓武天皇によって延暦三年(西暦784年)に都を京都の長岡京に移され、更に延暦十三年(西暦794年)に平安京に遷都され現在の地を中心に造営された、その後遷都から166年を経た天徳四年(西暦960年)に初めて火災に遭い、時の村上天皇によって再建された。しかし、その後も度々火災による焼失と再建を繰り返し、相次ぐ戦乱等の為に再建されることなく一時は廃墟と化すこととなった。
現在の京都御所は、その後も焼失再建を経て徳川幕府が安政二年(西暦1855年)に再建を果たし今日に至っていて、歴史上代表的な建築様式を調和させ凝縮しており、文化財としても高い価値を有している、皇室用財産(国有財産)として宮内庁が管理している。
(上記説明は、
公益財団法人菊葉文化協会 発行のパンフレットより抜粋して掲載しています。)
「承明門」越しに見える「紫宸殿」 |
門の柱越しに撮影した「紫宸殿」 |
天皇の生活の場「清涼殿」 |
「蹴鞠の庭」と「御学問所」 |
「蹴鞠の庭」の東側にある「御池庭」 |
Aグループの会員の皆さん |
Bグループの会員の皆さん |
Cグループの会員の皆さん |
Dグループの会員の皆さん |
<上のA~Dグループの集合写真に限り画像が拡大できます>
【 昼食休憩(がんこ 高瀬川二条苑) 】
●がんこ二条苑の庭園散策
水深が浅い高瀬川
がんこ高瀬川二条苑の源流庭園
支部長のご挨拶
京都御所参観後バス二台に分乗して「がんこ 高瀬川二条苑」に移動しました。一台目のバスと二台目のバスの発車に時間に30分程度の差異があり、一台目乗車の皆さんは、後続の皆さんが到着するまでの時間を「がんこ二条苑」の庭園散策にあて写真撮影などで有意義に時間が過ごせましたが、二台目のバスの皆さんは、宴会後の庭園散策となりました。
高瀬川は、保津峡の開発で有名な江戸初期の豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)・素庵(そあん)父子が慶長十九年(西暦1614年)頃に開いた物流用の運河で、鴨川の水をとり入れ鴨川と平行して東九条まで南下し、鴨川を横断して伏見に通じていた。水深が浅いことから、底が平らな高瀬舟と言う船が使われ、ここから川の名前がつけられた。
「がんこ 高瀬川二条苑」は、上記の角倉了以の別邸跡で、明治の山県有朋や第三代日本銀行総裁の川田小一郎の別邸として使用、阿部市太郎氏の所有を経て伝わり高瀬川源流庭園となっているのだそうです。
(高瀬川の説明は、立札の説明を引用しています。)
●昼食宴会
高瀬川二条苑での宴会は、バスの到着時間差の為、午後1時30分から支部長のご挨拶に始まり例によって行事五回参加達成者の表彰と続き、副支部長の乾杯の音頭で宴会が始まりました。
幹事の説明によると、飲み放題でしかも舞妓さんの踊りやお酌がして貰え、記念撮影自由とのことで舞妓さんの到着が待ち遠しく感じる宴会のスタートとなりました。
やがて、舞妓さんが到着、最初に舞を披露されてやがて舞が終わると皆さん思い思いに記念撮影に移りました、ご夫婦で舞妓さんを中に撮影される人、ツーショットで撮影される人で撮影ラッシュとなりました。その後舞妓さん自らがお酌をして回られ、そこを記念撮影されるなど大いに盛り上がりのある宴会で、あっと言う間に予定時間の15時30分となりました。皆さん好評の内に現地散会し、2015年春のレクリエーションを終了しました。
本日のご馳走 |
ご馳走を前に歓談される皆さん |
舞妓さんにお酌を受ける会員さん |
写真提供者:鈴木、天野、宮元、福本、大熊
記事の一部提供者:倉橋、宮元
記事/HP作成:大熊
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