出屋敷高野街道は、高野山参詣のために整備をされた旧東高野街道の一部である。 東高野街道の歴史は古く、平安時代の官道である南海道に遡る。南海道は、律令国家体制の崩壊とともに、機能を失墜しつつあったが、高野聖の台頭を機に東の高野街道として再び重要視され、平安時代の後期から室町時代の末頃まで、貴族による高野詣での頻繁な往来で賑わった。 その道程は、山城と河内の国境の洞ヶ峠から現在の枚方市域を縦断し、生駒山地西麓を南下、さらに石川沿いを遡り河内長野で堺を起点とする西高野街道と合し、紀見峠を越え橋本を経て高野山に至る。 以後も慶長6年(1601)に京街道が整備されるまで、山城と河内を結ぶ幹線であった。枚方市には、洞ヶ峠から高野道・招提新大池(第19回で日置今池街道として紹介)・出屋敷・中宮大池・交野市郡津を経由して茄子作を通過するが、出屋敷は家並みとともに、かっての面影を今に留めており、旧街道に臨む多田家の生垣には、人々の往来を偲ぶように道標がひっそりと佇んでいる。 国道1号線出屋敷交差点から府道杉田口禁野線を家具団地方面に入り、一つ目の道を右に曲がると、出屋敷元町2丁目で「出屋敷高野街道」に出る。車1台がやっと通れる道幅で古い家並みが続き、やがて右側に出屋敷改良区会館とかかれた唯一の鉄筋の建物に出くわす。 しかしこれを過ぎると、道端には、まだ畑が残っているところもあり、大きな門構えの旧家が続く、落ち着いた静かな村落の趣が心地よい。徒歩交通時代の道で狭いが、すぐ右側には、府道枚方交野寝屋川線が走っており、左側には穂谷川沿いに山田池公園の対岸に堤防道があり、車交通の不便もなさそうだ。 村の中ほどに山田池公園に上がる道路が横切っており、ここから出屋敷元町1丁目になる。家並みが外れるころに多田家があり、庭を囲む生垣に埋もれるように「東高野街道」の碑が残っている。 村の外れに園通寺というお寺があり、ただいま改装新築工事中であった。やがて道路は府道枚方交野寝屋川線に合流する。合流地点のすぐ先には、市立総合スポーツセンターの体育館が見えていた。 冨田朝己記 |
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