長登銅山跡 美祢市美東町長登
長登銅山跡は平成15年(2003)7月25日、国内で初めて「古代鉱山遺跡」として国の指定を受けた。 現在、遺跡公園として整備され、古代の銅山である「大切四号坑」、また、近代の採掘の跡としての「花の山製錬所跡」や山神社、千人塚などが見学できる。 長登銅山は、8世紀初頭に開発され、奈良・東大寺の大仏を造る際に大量の銅を生産したとされる。長登には、昔から「奈良の都に銅を送ったので、奈良登の地名を賜り、いつしか訛って、長登になった」という地名伝承があった。 平成21年(2009)5月には、木造平屋約370平方bの「長登銅山文化交流館」がオープンした。日本最古の国営銅山の歴史、出土品の展示や、大仏が出来るまでのアニメーションの上映などをしている。また、製造用具や製品は県民族文化財に指定されている。 交流館から徒歩で約800bほど行くと、古代の銅山跡である「大切四号坑」に至り、入り口付近だけだが入坑でき、坑内の壁面に付着した緑青や石灰華を見ることが出来る。江戸時代には瀧の下緑青として、全国的に有名な岩絵具の原料となっていた。 近代の採掘跡・花の山製錬所跡には、坑口の間歩跡や、レンガ造りの煙突、大量の銅の精錬カスの堆積などが、山々に囲まれた景色の中に面影を刻んでいる。また、この製錬所跡をさらに進むと、鉱山の神を祀る山神社があり、寛文12年(1672)に、大切山で採掘された銅で鋳造した洪鐘(大きな釣鐘)が残る。 |
昭和47年(1972)、美東町史編纂の過程において須恵器が発見され、ここが日本最古の銅山の遺跡であることが分かり、同63年(1988)には奈良・東大寺境内から大仏創建当時の銅の塊が出土し、それを分析した結果、長登銅山産出のものであると推定された。 さらに長登でも発掘が進み、大量の木簡(県有形文化財)が出土した。この中には、奈良に銅を送ったという記載があり、大量の銅を献上していたことが判明した。 これを端緒として平成元年(1989)〜10年間、大切谷で旧美東町教委が本格的に発掘調査したところ、谷の各所から古代の作業場や銅精錬跡などの遺構や多種の道具類(土器・木簡)が数多く見つかり、奈良時代から平安時代前半に亘って栄えた長門国直轄の採銅・精錬官衙(かんが=役所)跡であることが明確となった。 平成2年(1990)の調査で、古代の採掘跡や精錬炉跡、大量の木簡が出土し、遺構が極めてよく残っている長登銅山跡は「眠れる地下の正倉院」として注目を浴びた。 木簡には、野身連(むらし)・大神直(あたえ)・大伴部・日下部などの氏族名が見え、奈良時代には国として栄え、沢山の人々が働いて「和同開珎」や「奈良の大仏」の原料である銅を生産していたことが明らかとなった、唯一の銅山跡でもある。 |
長登銅山には大きく3回の隆盛期がある。第1期は奈良から平安時代であり、国の役所(採銅所)が設置され、大仏用として採掘した銅が奈良の都に送られた。 第2期は江戸時代前期であり、坑内の壁面に付着した緑青や石灰華は、瀧の下緑青として、全国的に有名な岩絵具の原料となっていた。防長屈指の銅山として栄えた。 第3期は明治時代以降で、明治22年(1889)山陰の採掘王・鳥取県の堀藤十郎札造が鉱山権を取得し、同38年(1905)花の山製錬所が開設された。再開された採掘は、同41年(1908)にコバルト鉱が発見されると、年間2300d余りの精錬が行われる程の活況を呈し、全国的に知られるところとなった。しかし、これも大正8年(1919)廃業となった。 昭和7年に(1932)、採掘権を得た大阪の枡谷寅吉氏が、新たな鉱床からの採掘を始めるも、鉱床の枯渇から昭和35年(1960)採掘を中止し、同37年(1962)には事業所も閉鎖され閉山となる。 |
花の山製錬所跡 |
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