中道山 円光寺   明 王 院
 朱塗りの五重塔が美しい国宝の寺
 福山市の中心部を南北に貫くように流れる芦田川のほとり、国宝の本堂や五重塔をはじめ数多くの文化財を伝える明王院は、真言宗大覚寺派の古刹で、江戸時代初期まで西光山理知院常福寺と呼ばれていた。その門前には、かつて「草戸千軒」と云われ栄えた港町があった。
 平安時代から鎌倉、室町を経て江戸時代に至るまで、瀬戸内有数の港として朝鮮、中国などとも貿易し、芦田川流域の荘園集落の物資を集散する市場町として隆盛を極めた町は、寛文13年(1673)の大洪水によって一夜にして川底に埋もれたと云う。「明王院由来記には「延宝の洪水に新塘切り離し、草戸中島の民家ことごとく流れ申し候。その砌、境内を屋敷に分け遺し候」とある。
 常福寺(現:明王院)は、大同2年(807)弘法大師空海が真言密教を学んで帰国の途中、草戸千軒の港に立ち寄り、観音応現の霊地として草庵を結んだのが始まりとされる。
 鎌倉時代に、奈良西大寺の興正菩薩叡尊の教風に帰依した沙門頼秀が堂宇を建立し、西光山理知院常福寺として再興した。同じ頃、本庄青木ヶ淵に中道山明王院円光寺という寺があった。文明3年(1471)西国寺の不断経修行僧名帳の中に、常福寺衆・円光寺衆の名が共に見えている。
 江戸時代には、神辺城主だった水野勝成が福山城を築城の際、円光寺・明王院の住職宥将を斎主とした。また、元和6年(1620)には、明王院を城下神島下市に移転し、水野家の祈願所とした、
 承応4年(1655)三代水野勝貞の時、常福寺と明王院を合併し常福寺の寺籍を廃して、末寺48を統べる大寺として住職を宥仙とし、寺号を中道山円光寺明王院と改めた。

本   堂 (国宝)
 
参道の長い石段
 参道の長い石段を上り詰めると「萩の門」とも呼ばれる雄大な山門が迎えてくれる。
 正面に観音堂(本堂)、右手に入母屋造り本瓦葺きの書院と、水野勝成が居城としていた神辺城の遺構と伝えられる庫裡が整然と並び、左手には朱塗りの五重塔が背山の緑に対比し静かに佇んでいる。
 国宝の観音堂(本堂)は、鎌倉末期の元応3年(1321)の建立。和様、禅宗様、大仏様を折衷した建築様式で、尾道の浄土寺金堂(本堂)や多宝塔とともに、中世寺院の折衷様式建築では最古のものとして著名である。
 堂内内陣の須弥壇上厨子内に安置される本尊の十一面観世音菩薩は、檜の一本造りで伝教大師一刀三礼の作と伝わる。
 頭上に戴く十一面の化仏のうち頂上の如来相の仏面が、主人の不興を蒙り手討ちにされた者の身代わりとなって首穴に埋まっていたことから、「身代わり観音」として信仰を深めたと云う。御開帳は33年に一度の秘仏とされている。

 
山  門(萩の門)
 境内で一際目を引く五重塔(国宝)は、貞和4年(1348)南北朝戦乱の時に広く庶民の寄進浄財によって建立された「一文勧進の塔」として知られ、全国の国宝五重塔のうち5番目の古さを誇る。緩やかな屋根の勾配、下から上までほぼ同じ太さの丸柱など、和様の雄大な手法で構成された端正な姿が朝陽に映える様はいっそう美しい。 
 塔内は非公開だが、初層には本尊の大日如来を中心に、脇侍として不動明王、愛染明王が安置される。四天柱には金剛界三十七尊、四方の板壁には真言八祖行状絵伝、柱には龍と波浪湧雲三弁宝珠、長押の飛天、蟻壁の花鳥などが極彩色で描かれ、極楽の世界さながらの荘厳さである。
 四季折々の風情ゆかしい境内を巡り、奥ノ院のある草戸山へ。金山の息吹萌える初夏の新緑、晩秋の黄葉紅葉、市街をゆったりと流れる芦田川から瀬戸内海へと豊かに拓ける展望もまた心和ませてくれる。

  草戸千軒町遺跡
 草戸千軒町遺跡は、鎌倉時代〜室町時代にかけて芦田川の河口(明王院の門前)の中州に営まれ、瀬戸内海を通しての交易活動によって繁栄した港町・市場町である。昭和36年(1961)から30年以上に及ぶ発掘で、100万点以上の遺物が出土した。それにより、文献ではよく分からなかった当時の人々の暮らしが復元され、中世考古学が注目される先駆けとなった。
 芦田川は本来、福山城南側から福山港に向けて流れていたが、洪水防止対策として現在の流路に付替えられたため、その工事過程において遺跡の存在が明らかになった。
 福山市の広島県立歴史博物館には、発掘に基づいて再現した実物大の模型が展示され、出土遺物は草戸千軒町遺跡(国重文)として保管・展示されている。
 積み荷を運ぶ船が出入りする船着き場の前には、道路や水路によって短冊形に区画され、野菜や海産物などを売る店舗が並び、漆器を作る塗師屋や、下駄を作る足駄屋、鍛冶屋などが軒を連ね、奥にはお堂を修理する大工らの作業場もある。活気にあふれた町の様子がよく分かる。
 発掘当初は自然発生的な集落と見られてきたが、中国の陶磁器等の良品も多数見つかっており、「鎌倉時代に近くの荘園の地頭となった御家人が、年貢などを送る拠点に開発したのが始まりでは」と考えられている。遺物の分析や研究は今も続いている。最近も漆の樹液を集める容器とされていた竹筒が、花入れだったことが判明した。まだまだ謎を秘めた遺跡である。

五 重 塔 (国宝)