亀居山 放光院   大 願 寺  広島県廿日市市宮島町
 かつては厳島神社の修理や諸建築の建造を
 
山    門
 宮島・厳島神社の回廊出口の右手に見える山門と本堂が、明治初期の神仏分離まで厳島神社などの修造を司っていた、亀居山放光院大願寺である。真言宗の寺院で開基は未詳ながら、鎌倉時代に僧了海によって再興されたと伝えられ、道本・尊海・円海と相次いで傑出した住職が出て、厳島神社の修理建造に当たってきた。
 また、鍛冶・番匠(大工)・檜皮師などの職人団を率い、筑前・筥崎八幡宮、豊前・宇佐八幡宮の修理造営にも当たった。当時、厳島は瀬戸内海の要港で、ここに集まる京・堺などの貿易商人らとの接触も深かった。
 大願寺には、尊海が天文年間(1532〜1555年)に、高麗版大蔵経を求めて朝鮮に渡った際に購入した、瀟湘八景(紙本墨画山水図)の八曲屏風と、その紙背に見聞を記した、紙本墨書尊海渡海日記(国重文)、銅製朝鮮鐘(重要美術品)等々の国の重要文化財を収蔵する。
 現在は、厳島弁財天を本尊としているので、弁財天本堂ともいわれる。かつては亀居山ともいう丘の麓にあり、五重塔や大経堂(千畳閣)などとともに一大伽藍を形成していた。
 現在は、本堂と元禄年間(1688〜1704年)の造営と考えられている山門のみで、本堂は、表前面が本堂、裏が庫裡という特異な形態をとり、幕長戦争の際に、勝海舟と木戸孝允・広沢真臣らによって講和の会談が行われた一室も公開されている。
 本尊は、内刳りを施したヒノキ材による漆箔の木造薬師如来坐像(国重文)で、流麗な衣文と平安時代風の穏やかな尊様を漂わせた鎌倉時代初期の作である。また、千畳閣の本尊であった木造釈迦如来座像と、木造阿難尊者立像・木造迦葉尊者立像の三尊(いずれも国重文)は、鎌倉時代末期の作である。このほか、もと多宝塔本尊の薬師如来像、五重塔本尊の釈迦三尊像も安置されており、厳島神社における神仏習合の様相がうかがわれる。

 本 堂(表が本堂、裏が庫裡となっている)
 
   護 摩 堂
九本松(廿日市市天然記念物)