三 原 城 跡
 近代化で大きく変わった三原城
 JR三原駅に隣接する三原城は、毛利元就の三男・小早川隆景によって永禄10年(1567)頃、築かれたと伝わる。沼田川の河口と瀬戸内海に面した立地を生かして築かれ、毛利水軍として重要な役割を果たしたと考えられる。
 関ヶ原の戦いで西軍に与し敗れた後、小早川氏から福島正則、さらには広島藩浅野氏の支城として幕末まで存続したが、明治時代に入り廃城となる。建物や石垣は取り壊され、現在では市街化も進み、当時の面影は天守台や舟入櫓・中門跡などの石垣を残すのみとなっている。
 鉄道が城跡を分断
 三原城は、明治6年(1873)に海軍省の管轄となり、西海鎮守府を建設するための工事が進められた。しかし、沼田川の堆積作用が危惧されたため、この計画は解除される。
 以後、城内の建物・樹木などは競売にかけられ、建築物のうち侍屋敷門は市内の糸碕神社神門として、また14あった城門の一つである御作事奉行所門は順勝寺山門として移設された。
 そのうえ山陽鉄道(現JR西日本)が本丸を貫いて敷設されることになり、これによって城跡の大半が破壊された。
 明治27年(1894)、本丸跡を横断して建てられた三原駅が開業。多くの石垣は糸崎港建設の用材として撤去された。また、海側に国道が敷設されて海も埋め立てられ、かつては浮城と呼ばれた三原城も海から遠く離れることになった。 

  本丸天守台(北東から望む)
天守台の北東隅の石垣は、積み直しがされている。隅部の算木積みが北西側と比べ完成されており、この面は小早川時代ではなく、福島正則時代に積まれたものと考えられる。

  三原駅に隣接する天守台
新幹線の三原駅を支えるように石垣が残っている
 昭和50年(1975)の山陽新幹線開業に伴い、高架になった新幹線と山陽本線の三原駅が天守台に隣接して建設され、それ以降、駅構内からでないと天守台に行けなくなっている。
 天守台跡へは、三原駅構内からの入口があり、天守台の上から堀や石垣を眺めることが出来る。
また、天守台堀跡の周辺は、現在三原市教育委員会によって発掘調査が進められ、公園として整備されつつある。
 舟入櫓跡は公園となっていて上ることができ、桜の季節には多くの花見客でにぎわう。また西側からは舟入櫓の石垣を間近に見ることが出来る。舟入櫓の石垣下には基礎となった岩礁がみられる。
 その他中門跡は堀と石垣が残り、また和久原川の川岸には、川の流れを抑える役割を果たした水刎(みずはね)が一部残っており、当時をしのぶことが出来る。 

  舟入櫓跡
当時は南西に隅櫓が存在していた。現在は石垣のみが残存し、北側から昇ることが出来る。
往時は瀬戸内海とつながっており、船を引き入れる施設となっていた。
また、南側石垣の下には、島をつないで築かれた証として、基礎となった岩礁を見ることが出来る。北東側には現在も堀があるが、淡水である。

  中門跡
門と櫓が存在していたが、今は石垣が残るのみである。また、市街地化に伴い、中門前の堀は埋め立てられ、当時の半分程度の大きさになっている。石垣も一部と見直しが行われている。

  和久原川に残る石垣
和久原川の川岸には、絵図に描かれた石造りの構造物が今も残る。これは水刎(みずはね)と呼ばれ、大雨の時などに川の水の勢いを弱めるために設けられたもので、数ヶ所残されている。

  順勝寺山門
明治になり、三原城の門や樹木は払い下げが行われ、その後市街化が進み、大部分は失われていった。
この山門は、明治10年(1877)に三原城内にあった御作事奉行所の門を移築したもので、三原市の重要文化財に指定されている。当時の門の状態を保存する数少ない遺構の一つ。

  大手門跡碑
小早川隆景が、文禄5年(1596)に完成を指示した記録が残る門。この門から西が三原城内となる。
往時の姿を偲ぶものはなく、現在では門跡を示す石柱が地元の郷土会によって建てられている。