吉田郡山城 跡
 複雑に分岐した尾根上に造成された曲輪群
 戦国武将・毛利元就の居城として知られる郡山城は、吉田盆地を見渡す可愛川と多治比川の合流点の北側に築かれ、城域は郡山全山に及び、戦国最大級(東西1.1Km,南北0.9Km)の山城です。
 築城の時期は不明ですが、城内にあった満願寺や祇園社(今の清震社)などは築城以前から建立されており、15世紀後半には毛利氏の城として存在していたようです。
 当初は「本城」と呼ばれた東南の尾根上が城の中心で、砦のような小規模な城だったが、毛利元就が台頭した16世紀中頃に郡山全山を城郭化したといわれています。
 その後、山城としての限界を感じた毛利輝元は天正17年(1589)、新たに広島城の築城を開始します。2年後、本拠を広島城へ移し、郡山城はその役目を終えました。さらに、関ヶ原の戦いに敗れた後、防長2ヶ国への国替えにより、郡山城は廃城となりました。
 山頂部に設けられた主郭部
 郡山城は、山上部(城)と山麓部(里)で構成されています。山上部は山頂(標高390m、比高190m)にある本丸を中心として放射線状に270ヶ所以上の郭が築かれています。本丸、二の丸、三の丸などの中心部は「嶝(さか)」と呼ばれ、元就や輝元が住んでいました。
 ここには石垣の跡や瓦の断片が確認されたことなどから、輝元時代の16世紀終盤に大幅な改修が施されたようです。また、勢溜の壇、釜屋の壇、姫の丸など中心部を取り囲む各尾根上には、家臣居住区と思われる郛群が形成されています。
 一方、本城は戦国初期の形態を残しているといわれ、石垣や瓦は見つかっていません。さらに山麓部には城内外を区画する内堀が巡っていたことが判明しています。
 平成18年(2006)、(財)日本城郭協会より「日本百名城」に選ばれました。

  本 丸 跡

 郡山城の山頂に位置し、一辺が約35mの方形の曲輪で、北側に一段高くなった櫓台がある。
 大永5年(1523)に毛利元就が郡山城の宗家を相続し、郡山の南東にあった旧本城を、郡山全体に城郭を拡大していった。元就はここを本拠地として、幾多の合戦を経て、中国地方の統一を成し遂げた。

 二 の 丸 跡
 二の丸は南につながり、約2m低く北西にある石列で画した通路でつながっている。
 東西36m、南北20mの広さであるが、周囲を高さ50cm、幅1mの石類や石垣で27mと15mの方形に区画している。
 二の丸南側には、高さ約3mの石垣が残るが、この石垣は明治初年に行われた毛利元就墓所改修の際、ここから石を運んだという記録がある


  毛利元就墓所
 墓域内は前域、後域に分かれており、前域の手前一列目の石燈籠は、9代広島藩主浅野重晟・吉田出身の名医土生玄碩・山口県士族18人が奉献したもの。二・三列目は、毛利氏親族のもの。四列目は、7代広島藩主浅野吉長奉献の石燈籠が並んでいる。
 背後には広島藩主浅野吉長寄進の石垣を巡らし、標樹に近く「贈従三位大江朝臣元就御墓」の墓碑がある。


  毛利一族墓所
 郡山城初代城主・毛利時親以来歴代一門の墓が、城内、城下にあったが、明治2年(1869)に洞春寺跡のこの場所に移築・改葬された。右側一画の土盛りには、初代時親から8代豊元までの合墓で、それぞれの墓は大通院谷にあったものです。
 正面左側一画は、左端から24歳で亡くなった元就の兄・興元、2歳で父興元の跡を継ぎ、9歳で亡くなった幸松丸、隆元の室の墓が並んでいる。

  百万一心碑
 毛利元就墓所内にあり、郡山城築城の際に、元就が人柱に代えて、一日一力一心の大石を鎮めたという伝説がある摸彫りの碑が昭和6年(1931)、吉田郷土史調査会によって建てられた。
 「一日一力一心」とも読めるように「百万一心」の文字が彫り込まれている。「日を一にして、力を一にし、心を一にする」という協同一致の精神を示したものです。

  嘯岳鼎虎(しょうがくていこ)禅師の墓
 宝篋印塔式の墓で、石燈籠は山口県の洞春寺が建てたものです。
 嘯岳禅師は筑前博多の人で、二度も明に渡り修行を積み、永禄3年(1560)帰国後は、丹波高源寺、京都建仁寺、そして南禅寺などを歴任し、紫衣(しい)を賜りました。
 元就が禅師を尊敬して、
竹原妙法寺から度々吉田に招き参禅、元就の逝去に際して、葬儀の導師を勤め、元就の菩提寺洞春寺の開山となった高僧です。
 慶長4年(1599)10月5日没。この墓は天明8年(1788)、山口洞春寺によって建立された。