潮 音 山   向 上 寺  尾道市瀬戸田町瀬戸田
 しまなみ海道に映える国宝の塔
 山    門  尾道と今治をつなぐしまなみ海道で結ばれた芸予諸島。瀬戸内海のほぼ中央に位置し、九州から大和へと至る交易の中継地として拓け、また、村上水軍の本拠地となって勇壮な歴史を残した島々である。因島と大三島の間にある生口島は、平安末期に後白河法皇の荘園として発展した。
 南北朝時代には沼田小早川氏の勢力が及び、小早川氏の一族の生口氏が支配し、瀬戸田商人らと結びついて内海水運に関わった。戦国時代には毛利元就の三男小早川隆景が大陸貿易の基地としたという。
 レモンやミカンの畑がのどかに広がる周囲約28Kmの島の北西に瀬戸田港があり、港を見下ろす潮音山の緑の中に向上寺の三重塔が朱に映えている。
 向上寺は応永10年(1403)に地頭生口惟平・守平が瀬戸田潮音山の観音霊場に堂舎を建立し、臨済宗・佛通寺開山の大通禅師愚中周及和尚を迎えて開いた。「大通禅師年譜」によると、佛通寺に参集する修行僧を収容するため、向上庵をこの地に建てたのがその始まりとと伝えられる。
 本尊の聖観音菩薩は、中国の肇澄津師の作と伝えられる。9層の蓮台に鎮座する稀なお姿で、33年毎に開帳供養する秘仏である。

 潮音山にそびえる三重塔(国宝)は、小さな瀬戸田の町のどこからでも見えるが、入り組んだ家並みの奥にある参道はなかなか見つけにくい。港に面した北町の狭い路地を抜けて、ひとしきり石段を登ると朱塗りの山門があり、その前に観音堂が建つ。
 伽藍の多くは明治6年の火災で焼失、三原近在の寺院解体による古材で本堂を再建したが、老朽化のため取り壊されたという。その後永い間、庫裡を仮本堂としてご本尊を安置してきたが、平成22年(2010)に本堂が新しく建立され、国宝の三重塔と鐘楼とともに静寂の中に佇んでいる。
 この三重塔は、永享4年(1432)、生口惟平と庶子守平を大檀那として建立され、また、造塔本願檀那の信元・信昌なる人物も、内海水運で財を成した生口島商人と見られる。
 三間三重のこの塔婆は、本瓦葺きで相輪先端までの高さが約19mあり、室町期の折衷様式を取り入れた組物の装飾彫刻や相輪の水煙など、流麗な姿と細部の装飾が見事である。
 尾垂木下には植物の葉を抽象化した若葉の彫刻が施され、各重に花頭窓を配し唐様の意匠が随所に施されている。高欄を支える四隅の親柱には蓮の花を逆に被せた形の逆蓮華の飾り付けが珍しい。
 建築年代が明らかで、唐様の手法が極めて濃厚なこと、細部にも特色ある手法が多い点などから、室町時代の貴重な禅宗寺院の塔婆として昭和33年(1958)国宝に指定されている。
 一帯は潮音山公園となっていて、春には桜やツツジが華やぎを添える。等の周囲を巡りながら山頂へと登る道は、松尾芭蕉や河東碧悟桐などゆかりの文人たちの句碑が並ぶ文学の小径でもある。
       向上の 極に達して 四方拝              江見水陰
 山頂からは陽光燦々と明るい瀬戸内の海と島を望む360度の展望が開ける。瀬戸田水道を挟んで対岸に高根島、北東には佐木島と因島、西には遠く大三島も見える。夕凪の海を背景に、優美な塔のシルエットが浮かぶ様は、まさに一幅の絵のようだ。

三 重 塔 (国宝)
  瀬戸田町に生まれた日本画家・平山郁夫は少年時代、向上寺の境内を遊び場としてよく絵を描いていたという。「しまなみ海道五十三次」と題した水彩素描画シリーズや「瀬戸内曼荼羅」の緞帳にも、潮音山と向上寺の塔がふるさとの原風景として描かれる。境内各所のスケッチ地点には、作品の写真を添えたプレートが置かれ、実際の風景と対比して眺めてみるのも興味深い。公園の遊歩道を東に下ると、平成9年(1997)にオープンした平山郁夫美術館があり、作品の一部を鑑賞することが出来る。
 
 三重塔は、昭和38年(1963)に解体修理を行い、用材の大部分は建立当初のものを使用し、禅宗寺院の塔として貴重なものである。
 大正2年(1913)国宝に指定され、昭和26年(1951)一旦重要文化財となったが、昭和33年(1958)2月、再び国宝に指定される。
  鐘楼の鐘は弘治元年(1555)に、島民の煙管、簪、帯留め等の金銀を持ち寄り、鋳造されたと伝わる。音色の良さと歴史的な由来により、幾度となくNHKの「ゆく年くる年」で放送されている。
 
本   堂

本 堂 内 陣
 
観 音 堂
 
町並から一直線に上る石段の参道
 
幾重にも折れ曲り案内地蔵が立つ、三重塔の境内に続く参道。