厚母大仏 (安養寺)                       下関市豊浦町厚母郷

  この大仏は昭和4年(1929)に国宝に指定され、同10年(1935)には修理が行われた。昭和25年(1950)の文化財保護法の施工により、重要文化財に指定される。
 総高一丈二尺五寸、像高八尺八寸八分(269.1cm)のいわゆる丈六仏で、我が国六大仏の一つとされ、近郷では「厚母の大仏」「安養寺の黒仏」と称され、親しまれている。
 内刳りを施した楠材の寄木造りで、現在は古色塗りを施す上品下生の印を結ぶ通形の阿弥陀如来坐像である。坐像の特徴の一つに、膝張りと膝高との関係がある。古い像ほど膝が高く、膝高を一とすれば膝張りは五の割合であるが、時代が下がると膝高が低くなっていきます。
 本像の膝張りと膝高の割合は、膝張りに対して膝が低くなっている。これは下から仰ぐ大仏の頭と膝との釣り合いが崩れてしまい、頭がより小さく映ることを防ぐ工夫とされている。また、藤原末期の造像で、破損は少なく当代有数の様式を備えた技巧は素晴らしい。一丈に近い巨像にまとめあげ、相好堂々とした大作としてこの地方を雄視している。

 
この大仏は、桓武天皇の延暦年間(750〜810年)、坂上田村麿が鎮守府将軍に任ぜられた時、国家鎮護のため名匠・春日に仏像を彫らせ、要衝の地に大刹を選び安置されたものとの伝承もあるが、様式からは平安時代後期〜鎌倉時代前期の作と考えられている。仏胎内背部には「田村麿祈念仏」と銘記されている。
 長府・国分寺の奥ノ院・安養寺の本尊であった大仏は、安養寺が廃絶されたため、また蒙古襲来に際して、長門国守護職に任ぜられた佐々木四郎高綱が、敵国降伏の祈願仏とする為、吉母の東向坊(安養寺の末寺)に遷した。その後東向坊も廃絶して一時露座仏となっていたが、ここ厚母の安養寺に安置された。
 
    安養寺

 安養寺は、聖武天皇の天平13年(741)頃、国毎に金光明四天王護国寺及び法華滅罪寺が建立され、長門の国府・長府にも国分寺が建立された。
 この国分寺境内には、四十九院の寺々があった。『国分寺古跡由来書』によると、その中に、安養寺及び極楽寺を以って、長門国中の諸末寺に沙汰をしたとある。また、『豊府志略』の国分寺の条に、境内西方の安養寺を以って奥ノ院とする、とあるから安養寺は国分寺の奥ノ院であったと思われる。
 残念ながら長府・安養寺は廃絶してしまったが、その後、江戸時代の享保年間(1716〜1736)に、長府功山寺の12世実門を中興の祖として、安養寺の寺号をここ厚母の地に遷し、功山寺の末寺として小刹が再建された。
 長府の地には現在も、「安養寺」の地名が残っている。
  安養寺・大仏殿

 大仏殿は、文化庁、山口県、下関市の補助事業として新築・竣工した。この建物は、この地域に残る土塀や土壁のある風景と、一体となるように設計された。そのため外壁には、地元の土を固めた約1500個もの版築ブロックを積み上げるという、日本初の工法を採用した。
 その外観は、あたかもこの地域に多くある土壁の蔵を彷彿とさせる、鉄筋コンクリート、一部鉄骨造り平屋建ての建物である。
 竣工は平成14年(2002)10月30日、大仏遷座は平成15年11月14日