朝日山   安国寺 不動院                      広島市東区牛田新町
 

楼      門
 アストラムライン「不動院」駅で下車し、北東へ2分ほど歩くと不動院参道の奥に楼門が見えてくる。
 朝日山安国寺不動院は、江戸時代の『新山雑記』では、当寺の開基は僧・空憲であると伝えられているが、創建の由緒については判然としていない。ただ、金堂内に安置されている本尊・木造薬師如来坐像(国重文)は、表情や衣文などに定朝様式の特徴がみられ、平安時代後期の作と考えられている。このことにより当寺は、平安時代には創建されていたと推定されている。
 当寺が安国寺不動院と呼ばれる由縁は、足利尊氏、直義公兄弟が日本六十余州に建立した安国寺の一寺であったことに由来する。以後、安芸安国寺として、また、安芸守護・武田氏の菩提寺として繁栄した。
 しかし、戦国時代の大永年間(1521〜27年)、武田氏と大内氏の戦いにより、安国寺の伽藍は焼け落ちてしまい、武田氏の滅亡により寺運も傾いていった。その後、50年は藁屋(わらや)に本尊・薬師如来坐像を安置する有様であったと記録されている。
 当寺の金堂(国重文)は、天文9年(1540)頃に大内義隆が山口に建築したもので、天正年間(1573〜92年)に移築されたものと伝えられる。金堂は、桁行8間・梁間4間で、中世の禅宗様仏殿では全国でも最大規模である。
 そのほか鐘楼(国重文)は永享5年(1433)頃、楼門は文禄3年(1594)頃の建立とされ、楼門の左右にある仁王像(阿形・吽形、県文化財)には、【永仁二年(1294)】の銘が残されている。
 当寺を復興したのが戦国大名、毛利氏の外交僧として、また、豊臣秀吉公直臣大名として戦国の世に名高い安国寺恵瓊である。恵瓊はこの間、当寺の伽藍復興に努め、金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備し、寺運は隆盛を極めた。
 しかし、関ヶ原の合戦で西軍に組みした恵瓊は非業の死を遂げ、毛利氏も防長二国に国替えとなり、恵瓊亡き後は寺領は没収され、寺運は衰えていくことになる。

金     堂
 毛利氏が去った後、福島正則公が安芸・備後両国49万石の大名として入国し、正則公の祈祷僧である宥珍(ゆうちん)が入寺し、住持となった。この時、宗派を禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とし、本坊を不動院と称した。後に当寺院全体を不動院と称するようになったが、正則公の治世は20年足らずで終わり、浅野氏が新しい国主となって広島に入ることになる。
 以後、藩政時代を通じて浅野家歴代藩主の保護を受け、概ね安定した時期が続いた。やがて明治に至り、当寺は時代の権力者の手から離れ、庶民の信仰の場となっていった。
 当寺に伝えられている文書類には、安国寺恵瓊関係の書状、豊臣秀吉朱印状、毛利輝元書状、福島正則書状などがある(紙本墨書不動院文書として県文化財)。これら文化財は、原子爆弾が投下された時に、牛田山が衝撃や爆風を防ぐなど、地理的条件が幸いして災難を免れた。これらの文化財は、一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、昔の栄華を今に留める極めて貴重な存在となっている。

不 動 院

鐘     楼
 不動院は爆心地から3.9`・b、市の中心部からかなり離れた山麓に位置しているため、爆風による被害以外、大きな被爆を受けることはなかった。原爆投下の8月6日朝は、特に変わったこともなく関龍暁住職と家族が住んでいたが、幸いにも原爆による負傷者も出ず、火災も発生しなかった。
 しかし、市の中心部で被爆した人達が郊外へ逃れる道筋であったために、次々と続く無残な姿の被災者の、死の行列は北へ北へと続き、力尽きた人々は死体となって、道路といわず川土手といわず埋めていったという。不動院の境内には被爆者が溢れ修羅場と化した。山門前では、衛生兵や地域の住民が出て、被爆者の救護のためドラム缶入りの大豆油を用意して火傷の治療を開始したが、順番待ちの列の中で治療を待ちきれず息絶えた人も多かった。
 被爆後、市中から親類縁者及び檀信徒をはじめ、一般の罹災者が避難して来て、庫裡・不動堂などに充満し、遂には境内にもはみ出し、暫くの間起居していたという。
 
銀山城主・武田刑部大輔の墓
 
中興開山・安国寺恵瓊の墓
 
太閤・豊臣秀吉公の遺髪の墓

広島城主・福島正則公の墓