山口県指定無形民俗文化財     数方庭祭            下関市長府        
 下関市長府の忌宮神社に1800年の歴史を誇る、天下の奇祭『数方庭祭』がある。真夏の7日間(8月7日〜13日迄)、祭人は、4つのグループに分かれて連夜、7時30分より10時頃まで、ただひたすら、長さ30メートル、重さ100`にも及ぶ”巨竹大幟(おおや)”に挑みます。竹を腰紐に提げて境内を廻る。一見、単調な祭りに見えますが、・・・現実は、甘くありません。転倒する人、ぶつかり合う人々、・・・「天下の奇祭」は、荒々しい夏祭りです。
 粋に「大幟(おおや)」を提げ持ち、境内を廻る男たちには、羨望の眼差しが向けられる。 男性は、2本の竹をつないで作られた「大幟(おおや)」を提げ持ち、女性は、「切籠(きりこ)」と呼ばれる灯篭を付けた七夕飾りを持って、「鬼石」の周りを廻ります。
 男たちは、「誰よりも長く、太い竹を提げ持ちたい」と願い、担い手だった父の思いを受け継ぐ息子たち、”祭人(まつりびと)”の思いは、こうして次の世代へと引き継がれて行きます。
 由来
 仲哀天皇天皇7年(198年)、熊襲を扇動して、新羅国の凶酋塵輪(じんりん)が豊浦宮(7年間仮皇居があった)に攻め寄せて来た。これに対し、皇軍は大いに奮戦したが、黒雲に乗って海を渡ってきた塵輪が、空から射かけるために苦戦し、宮門を守護する安部高麿・弟助麿も相次いで討ち死にした。
 そこで天皇は「空から射かける者、尋常にあらず」と大いに憤(いらだ)たせ給い、遂に御自ら弓矢を取って塵輪を見事に射落とされた。そして賊軍は退散し、皇軍歓喜のあまり矛をかざし、旗を振りながら塵輪の屍(しかばね)の周りを踊り狂ったといわれている。
 また、塵輪の首を切ってその場に埋め、大きな石で覆ったが、塵輪の顔が鬼のようであったことから、その石を「鬼石」と言い伝えらている。神功皇后の三韓への出陣や凱旋の際にも、この鬼石を中心に周りで素朴勇壮な舞が行われたと言われ、これが「数方庭」の由来とされる。

 江戸時代までの数方庭はその由緒に基づき、矛や剣、、薙刀等を持って、「鬼石」の周りを踊り廻るものだった。現在の「数方庭祭」の形が整ったのは、長府藩3代藩主・毛利綱元公の頃と言われている。世は元禄、殺伐を好まない太平の時代、それまで用いられていた矛や剣、薙刀を禁止して、竹竿幟と切籠(きりこ)と言われる七夕の笹飾りの様式に変更された。

 以来、その形が続けられてきたが、大正の初め頃から、従来の小幟に代わって、大幟が登場するようになったといわれ、それからは、競って大幟を出すようになってきたという。
 最近では、長さ30b、重さ100`という幟もあり、大変勇壮な光景となっている。鬼石の上に太鼓を据え、「スッポウテイ」と言われる独特なリズムを打ち鳴らし、それに合わせてまず、「切籠(きりこ)」が、次に小幟・中幟・大幟(おおや)が順次登場して、鬼石の周りを廻る。
 何十本もの幟竹が林立して、「鬼石」を廻る様は、勇壮にして典雅、まさに”天下の奇祭”の名にふさわしい祭りで、大正15年(1926)には、皇太子殿下(昭和天皇)が御台覧された。

大幟(おおや)のバランスを取りながら鬼石を廻る
 祭の順序
 数方庭祭は7日間行われますが、毎日全く同じスケジュールで進行します。午後7時、「これから祭りを始めます」と神前に報告する本殿祭が行われ、幟や切籠(きりこ)、太鼓、鉦等を奉仕する人々が、正面鳥居に集合し、神職の清め祓いの先導に続いて、太鼓、神職の笛に合わせて石段を上り、「鬼石」を右回りに一周し、太鼓を鬼石に据えます。
 7時30分、一番太鼓がドンと鳴らされ、それを合図に一同「ワアー」と、気勢を上げ、それを2,3回繰り返すと、締め太鼓・鉦が加わり、最初に「切籠」と呼ばれる七夕に登場するような、笹飾りを持った氏子の女性の方々や子供たちが鬼石の周りを3周します。切籠の数は20本ほどです。
 次に幼稚園や小学生の子供たちが、小幟(このぼり)を持って、鬼石の周りを3周します。小幟は、竹の長さが約4bで、太いものになるとかなり重量があるので、大人が介添えします。小幟に続いて中幟(ちゅうのぼり)、最後に大幟(おおや)が登場します。それぞれ切籠などと同じく、鬼石の周りを3周します。
 特に大幟は、腰に着けた綱紐で支えるようにして持ち、バランスを取りながら一歩一歩進むのですが、長いだけに一人が幟を倒してしまうと、周囲の大幟も巻き添えを食ってバタバタ倒れてしまう。そうしたハプニングも見る側にとっては醍醐味の一つですが、奉仕者にとっては、危険と隣り合わせと言えるでしょう。

 切籠に始まり小幟・中幟・大幟に至るまでの流れが一晩に1番太鼓から4番太鼓まで4回繰り返されます。神事の最中には、太鼓・締め太鼓・鉦のお囃子(はやし)が鳴り響きます。
  「チャンコホイホイ ドンパッパ」のリズムも軽やかに、始めは優雅に、次第に勇壮に・・・独特のリズムに乗って切籠が鬼石の周りを廻り始めると、境内は静かな期待感に包まれ、小幟・中幟と進むとその期待感は高まりを見せ、巨大な大幟が登場すると、一気に雰囲気が盛り上がります。
 
    旗ささげ 我も踊らん 若ければ 神の御庭に 昔しのびて  という歌にあるように、
    老若男女が心を弾ませ、天下の奇祭・数方庭は興奮の坩堝の中に没入していく。

 一番最初に「切籠」が静かに「鬼石」の周りを廻る
  次に「小幟」「中幟」が廻る。
 
「大幟」は昼間、境内の防護綱で一休み
 数方庭の信仰
 数方庭は「数宝庭」とも書いて、子宝を意味し、男の子が生まれたら大幟である大矢を、 女の子であれば雅な七夕飾りで彩った切籠を持って舞い踊りに参加しました。
 今でも無病息災、大願成就をはじめ、稼業の、また企業の繁栄などを祈る信仰に支えられ、期間中、3度はお参りし、神社の除災招福の小さな御幣を受け、頭にかざして帰る習わしがある。
 数方庭はスホーテイ、スホーデン、スッポウテイなどとも呼ばれ、数法庭、数宝庭、数方勢、数波不天以などの当て字も見えるが、語源はいまだ明らかではない。
 朝鮮半島のソッテイ、スサルテイなどと酷似しており、渡来した民俗行事と七夕行事との融合説もある。