山口県指定無形民俗文化財  浜 出 祭  (趣意書より)
 浜出祭と呼ばれるこの祭りは、7年毎に行われる 豊北町に残る大祭典であり、
大民族ダイミンゾク行事ギョウジです。
豊北町で最も山奥にある田耕神社を発した行列は、延々十八キロの道を 花巫女(はなみこ)
ショウ(しょうが)伝御(おとな)等が、馬上の装いも美しく海辺の土井が浜に向かって御神幸します。
一方、花巫女・山伏等を伴い海辺の神功皇后神社を発した神玉神官付行列は途中山田佐平治
行列ギョウレツと合流し、中間点の滝部堺堀切の陣屋で出迎え田耕側と対座します。
 神官と伝御長の古式の口上挨拶が夫々にあり、それが終わると合図と共に両者の行列は人馬、
ブツ、数百人の供奉員が古式豊かに祭場の土井が浜を目指して御神幸します。
 道中の行列は美観を呈し、まさに古式の大絵巻であり、近郷の人々はもちろん遠方からも多くの
人々ヒトビトが参集して奉迎のまことを捧げます。
 浜出祭の中でも、土井が浜で行われる神事「浜殿祭」は
七浦(粟野・阿川・島戸・角島・特牛・肥中・和久・矢玉・二見)の汐の清めに始まり、大鰤を供え、
ブリり神事、悪気退散の蟇目行事、神子の舞、神酒三献、魚据等が行われます。
 諸行事は、使者奏者の口上が違えば諸事進められず、坐詮議、御幣振り等は広く知られた
ところです。
 伝説によると浜出祭(浜殿祭)は蒙古襲来に際し敵国降伏の祈願を行ったところ、その神意
により土井が浜および田耕の鬼ケ原にて敵兵が全滅したといわれています。
 この困難を乗り越えることができたのもひとえに神慮によるところと、外敵退散の神事として
土井が浜に御神幸の典を挙げることとなったのが始まりです。
 ところがその後祭事は廃れ、江戸時代に凶作疫病がはやり、これを占うと蒙古兵のたたりとの
ご神託があり、撃退のゆかりの両神社において再会の神事を行ったところさしもの疫病もやみ
その年(享保十八年・277年前)より豊作豊漁が続いたことから、祭祀重きを加え今日に至る
といわれています。
掘切の陣屋3
掘切の陣屋4
掘切ホリキリ陣屋ジンヤ対峙タイジ
堀切の陣屋で対座1
堀切の陣屋2
行列1
 口上コウジョウモウ
口上コウジョウカエ
先導センドウ山伏ヤマブシ
行列2
神輿ミコシツヅ
行列3
主役シュヤク
行列4
神子ミコ
行列5
行列6
もうすぐ会場カイジョウ
神輿到着
神輿ミコシ到着トウチャク
神事始まる
神事シンジハジまる
神事始まる2