芥川 仇討の辻 |
松愛会 高槻支部 広報委員会 編集 |
まず、当地の立て看板に示された説明文を紹介します。 『当芥川宿の仇討は今から凡そ 300年前、江戸時代初期の出来事である。石見国吉永(島根県大田市南部)の城下町で、二人の若侍が同藩の美しい稚児の争 奪から その意趣遺恨で果し合をしたのが発端である。 ことにその経緯の仔細は盡くせないが 要するに下手人の侍は自分の邪推から もう一人の藩士を江戸表で殺した。 殺された藩士の子息 助三郎という若殿 は、秀吉の臣で文禄慶長の役の水軍の将であり、賤ヶ岳七本槍の一人でもあった加藤左馬之助嘉明の曾孫という貴公子であった。 親の仇討を深く心に決めた彼は 京の剣客について日夜 剣を学び すこぶる上達した。助太刀の剣士と若党を従え敵を求めて諸国を遍歴すること二年有半、虚 無僧に身をやつし一管の尺八で門付けする敵が 当芥川宿の旅籠に入るのをついに見届けた。 初秋のもう肌寒い夜明け、敵が宿を立ち去るところを この辻で助三郎少年は 声高々と名乗りをあげて躍りかかり不倶戴天の敵を討ち取り めでたく本懐をと げた。 時に弱冠十四才であった。 討たれた八之丞の懐中から一通の書状が出てきた。それには自分は二人も殺した人間であるため 討たれて当然であり且つ、討った方に咎はないとあった。この 仇討は双方が当時の武士道のモラルを貫いた美談として 広く全国に喧伝され また風俗史の上からも貴重な資料として【続近世畸人伝】などの諸書にも取扱わ れた。因にいえば大通寺の中興の名僧南谷は この助三郎の実弟である。』 昭和五十二年四月 郷土史研究会 中西七丘 誌す |
上 記の中西七丘氏の名文から、やっと捜し当てた仇に果敢に挑む紅顔の美少年の姿が、討たれた八之丞の死に顔には安らかな微笑みが・・・。 そんな光景を彷彿 とさせてくれます。現場は左の写真に示すごとく、芥川商店街を西に抜けた郵便局の向かい側、『寿司 仕出し 八百鶴本店』前である。 ここ を右に進むと、直ぐ芥川一里塚。 早朝訪れるとお社は丁寧に拭き掃除され、周りは掃き清められております。 |
こ
のあたりが旧西国街道を挟んだ芥川宿で、19世紀前半の天保期には旅籠33軒、家数253を数え、大いに賑わったといいます。『七卿落ち』で有名な三条実
美ら七卿が、幕末の文久3年(1863年)8月、長州に逃れる途中ここに泊まっています。また京を目指す多くの勤皇の志士が道を急いだことでしょう。 今では、一里塚に揚げられている絵看板と、僅かに残る格子窓が往時を偲ばせてくれます。そのような時代の流れを一里塚のシンボル、榎の古木が静かに見続け ています。 話は戻りますが、この芥川宿で行われた仇討は、遺恨の連鎖に終止 符を打った珍しいものでした。 仇討という仕返し殺人を美挙として称えたのは、『君 に忠、親に孝』の思想が当時の日本人全ての階層の骨となっていたからだと考えられます。そのため遺族の義務とすることが社会通念とされ、士 族のみならず農工商にまで及んだといいます。 下手人探しで日本中を生涯彷徨ったり、返り討ちにあう悲劇を生み、更には討たれた方の子が討った方を親の仇として付け狙うという悪循環も起こしました。こ の悪弊は明治6年、太政官布告『仇討禁止令』により解消されたものです。 |
歴史上で三大仇討と言われるのは |
@赤穂浪士の仇討(忠臣型) |
播磨国 赤穂藩主 浅野長矩の仇、吉良義央を家臣大石良雄以下四十七士が討ったもの。 |
目的⇒主君の仇討 人数⇒多数 方法⇒夜襲 |
A曽我兄弟の仇討(至孝型) |
父 河津祐泰の仇、工藤祐経を、母の再婚先で成長した曽我十郎祐成・五郎時致兄弟が富士の裾野で討ったもの。 |
目的⇒父の仇討 人数⇒2人 方法⇒夜襲 |
B伊賀越の仇討(豪傑型) |
備前国 岡山藩士、渡辺数馬が姉婿 荒木又右衛門の助太刀を得て、弟の仇である同藩士 河合又五郎を伊賀上野城下の鍵 屋の辻で討ったもの。 |
目的⇒弟の仇討 人数⇒2人(含 助太刀) 方法⇒待伏せ |
こ
の三大仇討は忠孝の鑑 又右衛門三十六人斬り と喧伝され、いわいる『仇討物』として、歌舞伎、浄瑠璃などで持てはやされ、現在でもドラマなどで人気を呼
んでいますが、討つ側が寝込みを襲ったり、徒党を組んだり、強力な助っ人を頼んだりしていること、また討たれる側にも、非を素直に詫びる潔さがありませ
ん。そこには武士の美学が見えてきません。 この点、芥川宿で起こった仇討は、討つ側も、討たれる側も、真のサムライで、『仇 討の華』と言えるのではないでしょうか。 《 完 》 |