講師:古藤 幸雄 氏
古藤幸雄氏は、大阪歴史学会会員・地域史研究家です。、
高槻市公立中学校教員、
高槻市教育委員会勤務、
高槻市立城南・第三中学校長
を勤め上げられた後、
20代後半から大阪歴史学会近世史部会に所属し
近世専門の大学の先生と学術論文の草稿を練る研究会を
長年続けている近世史の研究や古文書解読の専門家です。
沢山の著書があり全国での講演活動もされています。
この日は幸い天候にも恵まれ、参加の49名が古代〜中世の三島地域の歴史を熱心に学びました。
講演の内容
1.前回講演概要
宇治川、桂川、木津川3河川合流地である淀に面した水無瀬、山崎の価値
荘園年貢、物資の集積地、古代よりの河津
大原駅設置(711年)、山崎橋・架橋(741年)、山崎駅設置(749年)
2.荘園の成立
@東大寺水無瀬庄(島本町)の設置(756年)
・東大寺造営開始(743年) 聖武天皇崩御(756年5月)
・水無瀬庄の規模 ・・・ 8町6反150歩(内 水田2町4反)
・摂津国国衙支配の土地から領主東大寺に(1029年)
・荘園の質的変化のプロセス
所有権の帰属をめぐり、領主と農民が対立(1045年)
中間搾取者の登場(1091年)
庄内農民の階層の分化
田堵広瀬氏の台頭
A 後鳥羽上皇、水無瀬離宮造営と没落(1199年)
・遊興三昧と民衆の疲弊
・承久の乱と敗北(1221年)
・伊予国守護 河野通信の水無瀬における動向
三男(河野通広の息子)は時宗開祖の一遍上人である
B安満(高槻市)勅旨田の開作
・832年 232町歩
弥生の集落は檜尾川(天川)の氾濫で荒廃、水路を付け替えて再開発
・勅旨田から安満庄へ
皇室→仁和寺→藤原摂関家→春日神社領へ(12世紀初め)
・金龍寺免田
能因法師や和泉式部ゆかりの寺であるが、今は焼失して廃寺
3.島上郡における武士と荘園支配
@宇治平等院領 真上庄と真上氏
・庄の設置 白河院政末期(1105〜1121年)
・真上郷のク司真上氏が再開発、関白藤原忠実に寄進→平等院へ
・摂津国御家人交名に見える幕府西国御家人(1187年)
真上氏、土室氏、芥河氏、広瀬氏、宿久氏、溝杭氏、能勢氏、岡氏
◎真上庄の所領構造の解析における高槻市史の間違いについて
真上庄四至における西限の小川(現真如寺川)以西も真上庄であった
城跡屋敷にあった「四方やらかい」の堀跡と城屋敷の位置「笠の森」神社は真上城屋敷紙ではない
城屋敷ごと中村氏が入手し家の屋敷神にしたというが、文禄検地でのこの地の所有者は中村氏でなく、
大蔵寺の与兵衛である
真上氏が支配した「真上井」の位置は、字内野でなく服部村の大蔵寺にあった
戦国時代、真上郷が支配する「四ケ郷湯」真上庄の支配権は、応仁、文明の乱後、
真上氏から小領主中村氏に移行したという推論は間違いである
近世初期から真上氏の子孫が東西真上の庄屋を勤め、中村氏は近世後期まで年寄であった
中村氏が近世初期真上氏に替わって「大庄屋」になったとする見解は荒唐無稽である
・宗家真上氏は、1333年5月9日鎌倉幕府六波羅探題とともに滅亡
・庶子家真上氏は、建武の新政権から真上庄の相続権を受ける
A芥河氏の動向(本家真上氏を相続した真上氏庶子家より芥河氏を相続)
芥河氏は芥川宿を根城にして、商業活動,高利貸しなどを通じて成長する
・摂津新御位田、水無瀬庄、富田御稲田、安満庄などを横領(1352〜1398年)
北摂武士団の一揆を形成し、一族を配置しその盟主として活動
・応仁の乱後、芥河氏と芥河真上氏は史上から消える
摂津の武士団は摂津守護細川氏に属するものの、神内山合戦で西軍山名、大内
軍に降伏、安照寺砦(緑が丘東部)合戦では東軍を攻撃する立場となった
乱終了後、室町幕府の実権は細川氏の掌握するものとなり、真上氏、芥河氏は
退けられ、替わって能勢氏が細川氏の北摂地域における代官的立場となり、
芥川山城築城とともに、その城主に就任、芥河、真上氏はこの地を去る
近世初期、真上氏は帰村、先祖の地真上村に屋敷を構え、田中氏として真上の地で復活、
東西真上村の庄屋となる
身近にある島本・山崎の歴史的な場所の、あまり書物に載っていない中世などのことを聞くことができ、
郷土の歴史を改めて興味深く感じることができました。
次回は、新しいテーマを事務局で検討していますので楽しみにして下さい。