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☆第71回 一休寺・平城宮跡 晩秋の旅 |
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2015(平成27)年11月26日(木) |
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参加者45名 |
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今回は9月の例会で訪ねた飛鳥・白鳳時代の明日香から |
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次の奈良・天平時代の平城宮跡を訪ね 大陸文化吸収の経緯を学び |
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お馴染み一休さんが晩年を過ごし墓所となった酬恩庵で過ぎ行く秋を惜しみます |
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今日、11月26日の誕生日の花は「サフラン」。花言葉は「愛への誘(いざな)い」。同じ釜の飯を食う仲間同士、楽しい旅の予感で車内は談笑の渦。いざ出発進行! |
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いつものように、代表をはじめとする世話役から、大勢参加への感謝、本日の訪問所の案内、添乗員さんから、本日のスケジュールと諸注意。資料作成世話役から、前回の旅を綴った「作品集」と、今回の訪問先について書いた「徒然話」の説明。 |
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バスは順調に走行。1時間ほどで「平城宮跡」に着いた。 |
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【平城宮跡】 |
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平城京は1300年ほど前、今の奈良市に建設された。その中心の平城宮は甲子園球場が30個も入る広さで、天皇の住まいや官公庁が集まり、海外からの使節団を迎えるなど華やかな外交の場でもありました。 |
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明日香「藤原京」から遷都した「平城京」は、わずか70余年で長岡京へ遷都しますが、この間シルクロードの東の終着点として、いわゆる天平文化の華が咲きました。 |
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青丹よし奈良の都の跡に立ち シルクロードの賑わい想う (▽) |
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長岡京は10年で終り京都に遷都、明治まで千余年の平安京が続くことになりますが、遷都後の平城京は広漠たる荒れ地になり、やがて農地になり、ここに都があったことも忘れられます。 |
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再び日の目を見たのは江戸時代末のこと、藤堂藩大和古市奉行所の北浦定正の実測研究によって、平城宮の規模が明らかになったことからでした。 |
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明治33年、奈良県技師だった関野貞(せきのただし)が大極殿の跡を明らかにし、保存を訴えました。これに応えて奈良の植木商、棚田嘉十郎(たなだかじゅうろう)が私財をなげ擲(う)って保存運動に努めました。 |
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嘉十郎は心労、過労、栄養失調がたたって失明、さらに保存運動が宗教団体に利用される事件に巻き込まれ、割腹自殺をして身の潔白を証明しました。一人の市井の人、棚田嘉十郎の壮絶な死を受けて、保存運動が盛り上がり、国の史跡指定、国有地になっていきます。 | ||
平城京歴史館前で勢揃い (◇) |
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歴史館に入る (☆) 復元された遣唐使船 竹の簾が帆になっている |
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館内では、パネル展示に加え、遣唐使の歴史や渡航の様子、往時の壮麗にして壮大な平城京の姿や華やかな文化を、最先端の映像技術を使用し再現したシアターを観る。 |
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朱雀門へ向かう (☆) 復元された平城京朱雀門全景 |
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朱雀門語りべの背に秋の雨 (◆) |
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平城宮跡内を走る近鉄踏切から大極殿を望む 近づくにしたがい偉容に圧倒される(☆) |
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大極殿でガイドさんの話を熱心に聴く(☆) 復元された天皇の玉座 「高御座(たかみくら)」 | ||
秋深しタイムスリップ平城宮 (◆) |
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平城宮跡資料館へ向かう 館内でも実に丁寧なボランティアガイドさんの説明を聴く (☆) |
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平城宮跡は朱雀門が平成10年に復元され、その後、第一次大極殿の復元、平城京歴史館・遺構展示館の新設、東院庭園発掘など観る所が多く、ボランティアガイドさんの絶妙な説明もあり、感動の連続であった。 | ||
秋時雨古代人(いにしえびと)を偲ぶ一日(ひとひ) (◆) |
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映像技術を駆使し、解りやすく展示しているが、1300年も前の遺跡なので、せめて資料館には学芸員がいて質問に応えてほしかった。 | ||
朱雀門や大極殿、東院庭園などが、当時と同じ場所に復元されているのは、湿田ゆえに腐らず発掘された木簡によるという。学術調査が終わった木簡は、保存方法として実績のある土中に再び埋めるそうだ。 | ||
天平の文化の華を伝えしは 千歳の寝床平城湿田 (▽) |
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【昼食 天平倶楽部】 |
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平城宮跡をあとにし、大宮町などかつての都を思わせる町名を見ながら15分ほどで、本日の食事処「天平倶楽部」に着く。 ここは地元食材を煮物、おひたし、揚げ物などに調理して提供してくれる有名店。 | ||
敷地内には、「秋暮るゝ奈良の旅籠や柿の木」と詠んだ正岡子規に因んで、「子規の庭」と称する日本庭園がある。 | ||
まずは旅に出られる健康に感謝して乾杯! (◇) |
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大和野菜や葛、胡麻豆腐、茸など、ご当地食材の彩り豊かで多彩な「天平御膳」 |
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至福なり天平御膳に秋惜しむ (◆) |
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食事半ばにタイミングよく出してくれた天麩羅・茶碗蒸し・味噌汁も温かく美味しく頂く |
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食後素敵な「子規の庭」を散策 (☆) |
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【酬恩庵 一休寺】 |
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天平倶楽部から程近い「なら和み館」で土産などの買い物を楽しみ、酬恩庵(しゅうおんあん)一休寺へ向かい、40分ほどで到着した。 |
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トンチ話でお馴染みの一休さんは、母が後小松天皇の寵愛を受けたが、讒言(ざんげん)により宮中を追われ、嵯峨野の天龍寺近くで生まれる。 6歳で京都の安国寺に入門、詩才に優れ洛中の評判となる。 17歳、戒名「宗純(そうじゅん)」を授かる。 22歳、道号「一休」を授かる。 26歳、琵琶湖岸船上で座禅をした時に、暗闇でカラスの鳴く声を聞いて、「カラスは見えなくてもそこにいる。仏も見えなくても心の中にある」と悟る。 その後、一蓑一笠(いっさいちりゅう)の姿で近畿一円の説法行脚修行に出る。 |
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酬恩庵一休寺の総門前で記念写真 (◇) |
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モミジがきれいな参道 (☆) 方丈の南庭園 |
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秋の景心安らぐ名庭園 (◆) |
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方丈の北庭園(蓬莱庭園) (☆) 南庭園のサツキの刈込みを観ながらお話を聴く | ||
秋暮るる千年を経て禅の庭 (◆) |
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一休さんにあやかろうと頭を撫でる (☆) 「少年一休像」 | ||
世の中の汚れを箒で一掃したいという願いを込めた「少年一休像」は、皆さんが撫でるので頭が照り輝いている |
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62歳、尊敬する大應国師が200年前に創建し、その後、兵火に焼かれ荒廃していた妙勝寺に御堂を建て、宗祖の恩に報いるという意味を込めて酬恩庵(しゅうおんあん)と名付ける。以後多くの文化人が一休を慕って訪れるようになる。 | ||
76歳、住吉薬師堂で鼓を打つ盲目の美人旅芸人・森侍者(しんじしゃ)に出会う。彼女は20代後半、50歳の年齢差があったが一休が他界するまでの10年間、二人は酬恩庵で暮らす。 |
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86歳、一休は等身大の坐像を弟子に彫らせて、そこへ髪や髭を抜いて植え付けた。これは、「禅僧は髪を剃るもの」などといった、つまらない形式に捉われるな。との教え。 |
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自分の髪や髭を植えつけた一休禅師木造(重文) (☆) |
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87歳、一休亡くなる。辞世は「朦々(もうもう)淡々として60年、末期の糞をさらして梵天(ぼんてん)に捧ぐ」。 臨終の言葉は、「死にとうない」。悟りを得た高僧とは到底思えない一休らしい言葉で人生を締めくくった。 | ||
一休は他界する直前、「この先、どうしても手に負えぬ深刻な事態が起きたら、この手紙を開けなさい」と、弟子たちに1通の手紙を残した。果たして数年後、弟子たちに今こそ師の知恵が必要という重大な局面が訪れた。固唾(かたず)を呑んで開封した彼らの目に映ったのは、「大丈夫。心配するな、何とかなる」。 |
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現在、酬恩庵は「一休寺」の名で親しまれている。一休が死の前年に建てた墓は境内にあるが、天皇の息子であったことから、そこは宮内庁の管轄で、菊の紋章の門から先は立入禁止。庶民と共に生きた一休としては、この隔離された状況は不本意と思うが…。 |
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往古の平城宮の跡を辿り、酬恩庵で子供の頃から馴染んだ一休さんの生涯を学び、清々しい気持ちで帰途に就く。いつものように、松愛会高槻支部の役員から、行事の案内、松愛会ホームページのセキュリティ強化策の「会員登録」のお話。 北摂文芸クラブ世話役から、次回例会のPR、添乗員さん、ドライバーさんへの感謝。 添乗員さんからの挨拶を受け、予定より20分ほど早く高槻に無事帰着。 皆さん良いお年を迎え、2月の例会で元気に再会しましょう! |
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<俳句>桐山俊子(◆) <短歌>永野晴朗(▽) |
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<写真>竹内一朗(◇) 見城好豊(☆) 永野晴朗(無印) |
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<文>永野晴朗 |
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