59回 赤穂城跡と国宝「旧閑谷学校」in備前の旅

平成24 (2012)1129()

参加者50

                    

鎮座して満百年を迎えた赤穂義士を祀る大石神社に参拝し

先進的教育思想に基づき建立された特別史跡「旧閑谷学校」を見学

日本のふところ瀬戸内で旬の牡蠣や新鮮魚介を賞味し

晩秋の播州・備前路に秋を惜しむ

今年の掉尾を飾る第59回は、忠臣蔵ゆかりの赤穂城跡と、天下三賢侯の一人と称えられる池田光政が庶民の学校として建立した旧閑谷学校を訪ね、瀬戸内の幸満載の食事賞味の旅。

流石に1129日ともなれば、朝はかなり冷え込む。それでも早くから集まってくださり、今回も補助席を使う盛況で車内は熱気にあふれている。

代表より前回同様たくさんの方の参加に感謝と、文芸クラブを一つのファミリーと考え、来年度も推進したいなど琴線に触れるお話、続いて添乗員さんより、ドライバーの紹介と本日のスケジュール、諸注意などのお話、さらに世話役より、配布資料の説明と前回訪ねた「琴ノ浦温山荘園」の園長から、北摂文芸クラブのホームページを見て、教養と健康みなぎるエネルギッシュな活動」に感動したとのメールの紹介などしながら、快調に播州赤穂へ向う。


【赤穂城跡 大石神社】

心地よい揺れに身を任せながら310年前に思いを馳せる。 あの日、主君長矩(ながのり)が血を吐く思いで詠んだ辞世を携えて早駕籠が赤穂へ向けてひた走った。

“ 風さそうふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を 如何にとやせん ”

<浅野長矩>

主君の無念をはらそうと苦節19ヶ月、見事本懐を遂げ、主君の眠る高輪泉岳寺まで凱旋し墓前に吉良の首級を供えた。そして全員切腹の沙汰。

“ あら楽し 思ひははるる 身はすつる 浮世の月に かかる雲なし ”

<大石良雄>

予定時刻通りに赤穂城跡到着。案内してくださる土産店「巴屋」の方が出迎えてくれた。記念写真撮影後お話を伺いながら順次見学。

平地に城を造ったのは、周りの川や海が天然の掘りとなったから。平城としては本州で最後にできた城。大手門から入り、すぐの枡形の説明を聞きながら進むと、大石良雄宅跡の長屋門に出会う。外からは分からないが、頑丈な鉄板が仕込まれ容易に破られない構造になっているそうだ。ほどなく大石神社に行き着く。神社創立の由来や祭神などのお話があり、後は自由に見学&参拝。

今日もにこやかな女性陣 (◇)

昭和30年に復元された大手門・隅櫓の前で  (◇)

大手門前での説明 (◇)              枡形や石垣の説明 (◇)

大石良雄宅の長屋門                大石神社

 吉良邸討入は江戸っ子の喝采を博したが、世間を騒がした大罪。世をはばかり大石邸内に小さな祠を設け密かに浪士を祀っていたが、明治天皇の宣旨(せんじ)を契機として、明治43年に大石神社起工、大正元年に竣工した。

 祭神は、大石内蔵助良雄以下四十七義士、討入前に忠孝のはざまで自刃した烈士萱野三平を主神とし、浅野長直・長友・長矩三代の城主、その後の藩主森家の先祖で本能寺の変で散った森蘭丸等を合祀しているそうだ。

 今回観たのは広大な城跡のごく一部である。旧赤穂城庭園(国の名勝)、復元された天守台からの眺めも素晴らしいそうだ。赤穂城跡は現在も発掘作業中で、まだまだ復元段階である。やがて往時の姿が蘇ることだろう。行く度に観る所が増える貴重な存在だ。是非また訪ねたい。


【昼食 日生町「美晴」】

赤穂を出ると直ぐ備前の国になる。ほんの30分弱で瀬戸内でも屈指の漁港日生に着いた。ここは土日には京阪神の客で大賑わいする所だ。

男達が獲ってきた魚を女性軍が威勢よく販売している「五味の市」、その向かいには、海の駅「しおじ」があり、水産加工品の販売や今朝水揚げされた魚介類のバーベキューコーナーもある。広場では鉄板を備えた車が今年の第7B-1グランプリで見事5位になった「カキオコ」(牡蠣入りお好み焼)を販売している。食指を伸ばしたいものばかりだが、もうすぐ美味しい昼食、ぐっと我慢する。

 本日の食事処は、漁港から5分ほどの所にある美晴旅館、「魚美味倶楽部美晴(ととうまくらぶみはる)」。

 今回も新しく入会される方1名と、3年振りに再入会される方1名の紹介。歓声と拍手で歓迎。続いて恒例の頑張ろう乾杯! そして賑やかな宴が始まる…。

毎回新しい仲間が増え 力強く乾杯! (◇)

豪華美晴会席

 予めテーブルに並べられたものの他に、次々と運ばれてくる。豪華と謳(うた)うだけあって品数が多い。

まず、今が旬の牡蠣(かき)土手鍋に定番のカキフライ、瀬戸内名物の蝦蛄(しゃこ)鯛と烏賊(いか)の刺身メバルの煮付(たこ)の煮物に山海の幸を詰めた茶碗蒸お吸物香の物デザートと続く。

特筆すべきは刺身の味。鯛が甘く、烏賊が粘りつくようなモチモチ、久し振りに本物を味わった気持ちになった。これぞ瀬戸内の味。 

来年最初の例会は淡路島を予定しているが、また美味しい刺身が頂けることだろう。ご飯のお代わりを何度も勧められ、応じる方もいたぐらい美味しく豊かな昼食でした。


【特別史跡 旧閑谷学校】

日生を後にして30分も走ると旧閑谷学校に着く。男女の語り部さんが迎えてくれた。男性はなんと閑谷学校最後の卒業生とのこと。戦後学制が変わったが5年制中学校の最後で昭和25年卒業という。閑谷学校は江戸時代だけの学校でなく、明治・大正・昭和と続き多くの逸材を世に輩出していたのだ。

女性の語り部さんは、語り部会の副会長。お二方とも語り部会の重鎮なので最後まで熱烈に解説、案内をしてくださった。

 

重文の石橋を渡り閑谷学校へ向う     聖廟の正門として建てられた校門(重文)

 

熱意あふれる説明に聴き入る (◇)    重文の聖廟(孔子廟とも)2本の楷の木

 閑谷学校は、1670(寛文10年、岡山藩主池田光政(みつまさ)の先進的な教育思想のもと、庶民の学問所として設立された。当時の学問は儒教を基盤にしたもので、建学は儒学の祖、孔子を祀る聖廟建立から始まる。

聖廟は一番高い所に位置し、主要部の建築材に楠材を使うなど他に比べ優れている。隣に藩主光政公を祀る閑谷神社が建立されているが、屋根の高さを聖廟より一段下げ、下位とされる左側に建てられている。藩主といえども「三歩下がって師の影を踏まず」という姿勢に、光政とそのブレーンの子弟教育への真摯さが伺える。

孔子が亡くなったとき、門人は3年の喪に服したが、孔子十哲の一人、子貢(しこう)は更に3年墓所を守り、楷の木を植えてその地を離れた。それが「子貢手植えの楷」として、今も孔子の墓所に強く美しい姿をとどめているという。

大正4年、農商務省林業試験場の初代場長の白沢保美(やすみ)博士が孔子の墓所に行き、楷の木の種子を採取し、播種、育苗した。その後、日本国内の孔子や儒学にゆかりのある学校に寄贈。風土に合ったのか閑谷学校の楷の木が最も大樹に育っているそうで、聖廟両脇の楷の木は、幹の太さ2m、高さ13mに達している。

11月上旬には見事な紅葉でライトアップもされるが、訪ねたときは全て落葉し枯木立になっていた。華やかさはないが、四方八方に伸ばした枝が、あまねく人に、学問の道においでと招いているように見えた。

講堂(国宝)の前で記念撮影 (◇)

閑谷学校の一番の見所は、何と言っても国宝の講堂である。備前焼の瓦屋根の色調と優雅な曲線に講堂としての風格を感じる。中に入れば、鏡面の床に明鏡止水の心境で学問に打ち込めと喝を入れられた心境になる。

「克明徳」の額を掲げた講堂 (◇)

 講堂は閑谷学校の学問の場としての中心的な建物で、約300㎡あり構内最大。周囲に廻り縁を設け、木組みは大面取りの角柱上に船肘木(ふなひじき)を置き、桁を支えている。

 回り縁上に連子(れんじ)の欄間(らんま)を設け、内室には花頭窓(かとうまど)をつけ、10本の丸柱を建て庇間(ひさしま)と区別している。内外とも木部は全て拭漆塗(ふきうるしぬり)に仕上げているそうだ。丸柱は、割れや歪みを防ぐため、欅の大木の芯を外して取ったとか。

 
   細部までの懇切な説明に思わず注目 (◇)       内室・庇間・花頭窓 (◇)

簡素な室内と磨き上げられた床は、学問の場としての清冽さに満ちている。掲げられている「克明徳(こくめいとく)」の額は、5代藩主治政(はるまさ)公の書。儒学の教本『大学』の三綱領からとったもの。

『大学』の三綱領

大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民を親(あら)たにするに在り。

至善(しぜん)に止(とど)まるに在り。

大人、君子の学の目的とするところは、第一には天から授けられた徳性、すなわち良心を立派に磨きあげることであり、第二にはひとりおのれを磨きあげるのみならず、それを推し広めて、世の一般の人々をも、きのうよりはきょう、きょうよりは明日と、明徳を明らかにせしむることにある。そして第三には、二つの項目を至高至善の地位に保たせる、それが大学の真の目的なのである。

閑谷学校のもう一つの見所は施設を取り囲む石の塀である。幅約1.9m、高さ約2mの水成岩を積み、鑿(のみ)で蒲鉾(かまぼこ)型に仕上げている。

 校門の左右から起こり後ろの椿山をも含んだものだ。端正な姿を私たちは目にするが、300年経ってもゆるぎないのは、人目につかない地中深くに、平地は平地なりに、山側が山側に適した石組みや排水対策をしているからだそうだ。泰然たる石塀の姿が学問の道は不動の大道であることを教えている。

 初めは気付かなかったが、駐車場から閑谷学校への道端に閑谷学校関係の偉人のパネルがあった。小説家・劇作家・評論家の正宗白鳥(まさむねはくちょう)や、倉敷紡績の社長などの実業家で社会事業家の大原孫三郎などが、閑谷学校で学んだことを知った。

 山間(やまあい)ということもあるが、秋の日は釣瓶落とし。心配した雨にも合わず帰途に就く。今回もカラオケをしばし楽しむ。バス(bass)に負けじと、ソプラノ(soprano)が続く。やはり、「心に太陽を唇に歌を」だ。明日からの暮らしに弾みがつく。

今年も無事4回の例会を楽しめた

“ かにかくに 旅はいいもの 観て食べて 学んで語る 生き生きライフ ” (▽印)

来年も気心知れた仲間同士で愉快な旅を!




                                       <写真>竹内一朗(◇印)
 永野晴朗(無印)
                             <短歌>永野晴朗(▽印)
                        <文>永野晴朗