56回 『平清盛』ゆかりの地神戸&南京町の旅

平成24 (2012)223()

参加者54

                    


日宋貿易こそが経世済民の要と考えた平清盛が、その拠点とした神戸を訪ね

兵庫大仏が露座し、清盛が剃髪入道し、墓所ともなった能福寺に参拝

NHK大河ドラマ『平清盛』の「歴史館」および「ドラマ館」を楽しみ

南京町で広東料理を満喫し、この町ならではの買物を

白鶴酒造資料館では、見学と利き酒体験を


 天気予報通り小雨になったが54名の参加で、補助席にも座る大盛況。平成9年の発足以来の新記録である。今年最初の旅は、NHK大河ドラマ『平清盛』ゆかりの神戸方面となった。

『平家物語』によって、驕(おご)り高ぶった悪逆非道の男とされた清盛だが、それは間違いであることが定説になっている。大河ドラマでも、「新しい時代を切り開いた挑戦者」として描くそうだ。

神戸は古くから大陸文化を受け入れた港で、その象徴的な南京町で食事や買い物を楽しみ、灘の生一本の酒どころでもあるので、その規模と内容で定評のある白鶴酒造資料館を訪ねる。

いつものように、添乗員さんから、バス運転手さんの紹介と本日のスケジュール、および諸注意などのお話。

続いて代表より、補助席を使うほどの参加に感謝と、窮屈な思いをさせることへのお詫びとお願いがあり、世話役は赤紐の名札をつけているので、要望など何でも気軽に話して下さい。また、本日は今年最初の例会なので昼食後総会を開きます。その際も質問やご意見をお願いします。 とユーモアを交えたお話に爆笑、また爆笑。

いつもは、高速道に入ったあたりから配布資料の説明をするが、今回は1時間弱で到着するので、続いて世話役より資料の説明をする。

文芸クラブ作品集24:支部ホームページに載せた前回の活動報告書と、その旅に関連した「こぼれ話」で、例会の旅を2度楽しむ。

『平清盛』ゆかりの地神戸&南京町の旅徒然話:今回の訪問先の概略と、それに関連するお話。
☆『平家物語』の作者と、平家物語が何故あれほど人口に膾炙(かいしゃ)したか。
☆横浜や長崎が「南京町」から「中華街」に名称変更したのに、なぜ神戸は「南京町」のままなのか。
☆「白鶴」という銘にした理由や利き酒の仕方。など旅を多角的にとらえた話。

 さらに、今回は付録として、平家物語と同じ和漢混淆(こう)文の最初期の『今昔物語』を題材にした、「羅生門」「鼻」「芋粥」、および「手巾」「蜘蛛の糸」などの芥川龍之介作品を紹介した。


【大河ドラマ『平清盛』歴史館】

 高速道で休憩することもなく、予定通り最初の訪問先の歴史館に着いた。今年121日に、ドラマ館ともどもオープンした歴史館の場所は、兵庫区にある中央卸売市場の西側になる。広い駐車場に、小さなガソリンスタンド風の平屋の建物で、ちょっと拍子抜けした。幸い傘を差さなくてもいいぐらいの雨になった。



大河ドラマ『平清盛』歴史館前で (◇)

 館内へ入ると、まず、約10㎏の十二単衣(じゅうにひとえ)、約4㎏の冑(かぶと)、約3㎏の長刀(なぎなた)などが展示されている。自由に試着できるので、その重さに皆さんビックリ。昔の人は偉かったと感心することしきり。

 その他の展示は、清盛が活躍した平安時代末期の暮らしや、神戸と清盛のつながり、さらには大輪田泊(おおわだのとまり)から兵庫津、そして神戸港へと発展していった港の変遷紹介などがあるが、目を引くのは福原京に関する遺跡や出土品の展示である。宋銭(そうせん)を間近に観て感動した。


【宝積山能福寺】

 宝積山(ほうしゃくざん)能福寺(のうふくじ)は、縁起によると、桓武天皇の勅命により、中国に留学していた伝教大師最澄(さいちょう)が帰途、兵庫和田岬に上陸し、延暦24805)年に歓待した庶民によって建てられた堂宇に、大師自ら刻んだ薬師如来像を安置して、能福護国蜜寺と称したのが開創と伝えられ、伝教大師による我が国最初の教化霊場とされている。 

ここは、清盛が51歳のとき病に冒され、出家入道した寺、また熱病に罹(かか)64歳で亡くなり、六波羅で荼毘(だび)に付されたあと、当時「八棟寺(はっとうじ)」といわれていた能福寺に葬られたとされている。そいったことで清盛ゆかりの寺であるが、露座の大仏が鎮座しているお寺としても知られている。現在は、新西国三十三箇所23番札所にもなっている。

明治になると、兵庫港も開港し、急速にキリスト教信者が増えてきた。その状況に危機感を抱いた仏教徒らが、シンボルとして大仏建立を願うようになる。そのようなことから明治24年、豪商の南条荘兵衛の寄進で最初の大仏が建立された。高さが8.5mあり、奈良「東大寺」の大仏、鎌倉「高徳院」の大仏と並び「日本三大大仏」に数えられた。

ところが、昭和19年、例の金属回収令で国に供出された。長らく大仏不在の状態が続いたが、初代大仏建立100年目の平成3年に再建された。その際、保存していた初代の胎内仏も納められたという。高さ18mで、東大寺と同じ毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)である。

 与謝野晶子の作品のなかで、有名なものの一つに、「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」という短歌がある。 鎌倉の大仏を「美男」と捉える大胆さがいかにも晶子らしい。そういう目で兵庫大仏を拝観すると、なかなかのイケメンである。

   

    美男の兵庫大仏の前で (◇)



副住職のお話を熱心に聴く (☆)               平相国廟 (☆)

      

 小雨の中、副住職さんが迎えてくれ、お話を聴くことができた。いきなり、「仏教では雨のことを“甘露”と言います」と、雨の旅を労ってくれた。

 副住職のお話は、兵庫大仏建造の由来から始まり、金属回収令で、人を守る大仏を、人を殺す鉄砲の弾にすべく取り崩されたが、その時の住職の心情を話され思わず涙ぐんだ。実際には溶かした状態で終戦を迎え、平成の大仏に練りこんだそうである。

 清盛の墓所は方々にあるそうだが、ここの「平相国廟(へいしょうこくびょう)」は戦後も随分経った昭和55年につくられたそうで、その頃には清盛の悪人説が払拭されていたのだろう。


【大河ドラマ『平清盛』ドラマ館】

 ドラマ館はJR「神戸駅」から歩いて5分の「ハーバーランドセンタービル1F」にあった。今度は駅前の駐車場から歩かねばならないし、ビルにたどり着いても直ぐではなく、奥まった場所になる。

かつて神戸市は、市街後背部の山地より削り取った土砂で、ポートアイランドを代表とする人工島を臨海部に造成し、商工業・住宅・港湾用地として整備すると共に、土砂採取後の丘陵地を住宅地・産業団地として開発し、「山、海へ行く」と評判になった。

 また、地方博ブームの先駆けとなる、「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81)」を開催して成功させるなど、都市経営手法は、「株式会社神戸市」と称され、全国の市町村から自治体経営の手本とされた。 そのDNAが今も健在で、歴史館といい、ドラマ館といい、新たな経費を極力抑えたものにしているように思える。

 ドラマ館に入ると、まず、突き刺さった大きな剣が迎えてくれる。この剣は中国の「宋剣」といわれるもので、清盛の目線が中国、当時の宋に向かっていたことの象徴なのだ! 一気に気宇壮大な展開を期待させる。

最初のコーナーは「大河ドラマ情報ゾーン」。出演者の写真やドラマのあらすじ、平清盛を中心とした登場人物の相関関係、賭け双六(すごろく)などの小道具が紹介されている。次が「幻の福原京ゾーン」、福原京の謎をさまざまな角度から検討し、ジオラマとCGで再現している。

その横の部屋が「映像シアターゾーン」。100インチの大型スクリーンで、大河ドラマ「平清盛」をテーマにした映像を10分程度に要領よくまとめ上映している。椅子があるので、休憩も兼ねて皆さん観ていた。

シアターを出ると、人気の「清盛青春ゾーン」。ここには撮影で使用した衣裳や小道具の展示もあるが、平清盛を演じる松山ケンイチの等身大フィギュアが目を奪う。身長180㎝、体重60㎏が高下駄を履いているので痩身長躯そのもの。妻は今年15日に男児出産したPanasonic VIERA」でおなじみの小雪さんだ。

それはともかく、フィギュアは鬚(ひげ)や髪の毛を11本植え付けたとかで実にリアルだ。ずっと撮影禁止だったが、松山ケンイチとの記念撮影だけはOKとのこと。皆さん並んで写真を撮る。

最後は「海の覇者ゾーン」。清盛は出家したとき「浄海」と法名をつけた。そのことについて、『新平家物語』を書いた吉川英治は、第3巻の栞(しおり)に、「海の平氏たるを誇りとし、海に志があった」と書いているそうだ。げに、清盛は我が国最初の海の覇者といえるだろう。そんなことを考えさせるコーナーであった。

   

                 松山ケンイチ扮(ふん)する青年清盛と肩を並べて (◇)

【南京町】

 南京町は地図に載っていないので探すのがむつかしい。中央区の元町通りと栄町通りにまたがる東西約200m、南北約110mの狭い範囲を南京町と通称していて、南京町という正式な地名はないそうだ。

 横浜・神戸・長崎の華僑(かきょう)街は、その規模や異国情緒な町の雰囲気から、「日本三大チャイナタウン」として親しまれている。 チャイナタウンは昔から「唐人町」とか「南京町」と呼ばれていたが、戦前の一時期には、侮蔑的に“南京さん”という言葉が使われたこともある。

そのためか、戦後、横浜、長崎では「南京町」をやめて、「横浜中華街」、「長崎新地中華街」と呼ぶようになった。 しかし、神戸では名称変更の動きもなく、今では「南京町」といえば、神戸のこの地区のことで、固有名詞になっている。 なぜ、名称変更の動きすらなかったか? その理由は南京町の生い立ちにありそうだ。

明治元年に神戸港が開港し、外国人の居留地が設けられたが、当時、中国(清国)との間には通商条約を結んでいなかったため、神戸に上陸した華僑は居留地内に住むことを許可されず、西隣の雑居地で日本人と共に住み始めた。 そのため、神戸華僑の人々は他の地域に比べて、民族的対立も比較的少なく、日本人社会と良好な関係を築いていった。

 その関係は今も続き、春節祭(旧正月)などの主要な行事に、多くの日本人も参加しているそうで、世間に広く認知された「南京町」という呼称に何の違和感もないのであろう。 

東の入口「長安門」前でバスを降り南京町に入る。町の中央広場に黄色い屋根の「あずまや」がある。西の出入口が「西安門」、南が「南楼門(海榮門とも)」、北は元町商店街につながっている。

≪昼食≫ 

今日の食事処は、中央広場の少し手前の「中華菜館 龍郷」。南京町に開店して20年、今では中国、香港、台湾など中華料理の本場から大勢のリピーターが来るそうだ。 私たちは円卓を9人ずつで囲み、広東料理を中心とした「南京町コース」を頂く。料理の名前やどんな食材か、運んでくれる店員さんに尋ねても、日本語が下手で分かりかねる。店のホームページによる料理名は以下の通り。

 雲白香肉:四川風ブタ肉の冷しゃぶ      紅焼魚翅:フカヒレスープ
 生汁蝦仁:海老のマヨネーズ和え        辣牛絲餅:牛肉の辛味炒めクレープ包み
 蒸籠三色:点心三種盛り合わせ         鉄八仔鶏:若鶏の香味揚げ特製醤かけ 
 ☆姜葱湯麺:ネギ入り汁そば            本日点心:当日の甘い点心

 ☆四季水果:デザート

                
 四川風ブタ肉の冷しゃぶ      フカヒレスープ      海老のマヨネーズ和え
                 

  牛肉の辛味炒めクレープ包み    点心三種盛り合わせ    ネギ入り汁そば  

           
   若鶏の香味揚げ特製醤かけ(どちらか?)           点心&デザート 

次々と料理が運ばれてきて、ホームページより1品多かったように思う。中国の言葉に「満漢全席(マンハンチュエンシー)というのがある。これは、清朝時代の宴会料理で、満州族、漢族、それぞれの民族料理をあわせて216種、これを3日かけて食べること。本日の昼食は正に「満漢全席」の感で、品数、味、量、全てに堪能した。

≪総会≫

 年初恒例の総会。昨年度の会計と、それを監査した結果問題なし、ということをそれぞれの担当が報告、全員の承認を得る。続いて、会則を2箇所改定すべく趣旨説明、これも全員の承認を得る。

その後、今年の5月、9月、11月の最終木曜日に行う例会の内容について、担当世話人より説明。その他、皆さんからの要望なども伺う。数人の方からの質問や提案があり、代表が詳しく説明をし、ご協力へのお礼など申し上げ、和やかに総会を終わる。

≪南京町散策≫

 まずは、中央広場の「あずまや」の前で全員の記念撮影。

中国の古代からの思想に「陰陽五行思想」がある。その思想における「方角」の考え方で、中央は「土(ど)」といい、色は「黄色」となっている。そのため南京町でも、中央広場の建物の「あずまや」の屋根は黄色であった。

 

  南京町の中央広場「あずまや」の前で (◇)

 記念撮影後、三々五々連れ立って散策。確かに町のエリアは狭く、すぐに西安門に行きつく。門や店構えが中国風で、他所の町では味わえない雰囲気だ。皆さん、ここならではのお土産を物色。

初めて煮込んだ豚足を見た。実に旨そうな色をしていて、「旨そうやなぁ」、「250円とは安いなぁ」などと話していると、「小さいから230円にしとくわ」とのこと、メンバー2人が買って売り切れた。隣に並べてあった「ごま団子」が目の前で売り切れたが、5分で揚げてくれたので熱々を買えた。


【白鶴酒造資料館】

 神戸には、いくつもの顔がある。外国人を受け入れ日本人が旅立った海の「玄関」として、六甲山花崗岩を通り抜けてきた宮水による酒どころ「灘五郷」として…。 本日の旅のフィナーレは、その灘五郷の一つで産声をあげた、白鶴酒造の資料館。

 白鶴酒造は江戸中期の寛保31743)年に、灘五郷の一つ御影郷で誕生した。4年後、“風潮に流される事のない優れた酒”を表す意味を込めて「白鶴」を銘とした。近年では漁船の上で、俳優の矢崎滋が両手で丸をつくるCM、白鶴「まる」が有名で、愛飲したものだ。

白鶴酒造を代々経営する嘉納家は、御影郷屈指の名門で、菊正宗酒造を経営する嘉納家は本家にあたる。そのことから白鶴酒造の嘉納家を「白嘉納」、菊正宗酒造の嘉納家を「本嘉納」と呼ぶそうだ。

昔の成功者はよく社会貢献をしているが、白鶴酒造の白嘉納家でも、菊正宗酒造の本嘉納家や魚崎郷の櫻正宗山邑(やまむら)とともに、旧制灘中学校を創設した。 

また、7代目嘉納治兵衛が設立した「白鶴美術館」は中国古美術、中でも青銅器のコレクションでは世界的に知られているそうで、文芸クラブでも一度鑑賞したいものだ。

  

白壁・木造が粋な白鶴酒造資料館

資料館では担当の方の案内で映写ホールへ。15分ほど映画を観る。 酒を愛し、西行、芭蕉と並び称されるほど旅を愛した歌人若山牧水が、彼の歌、白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ”と共に白鶴酒造の酒造りの歩みを紹介してくれた。

建物は大正初期に建造し、昭和443月まで本店1号蔵として稼働したものを転用しているとのこと。まず、階段を上って2階から見学する。木造階段の踏板が激しく摩耗していて、往時の盛況を物語っている。もろ肌を脱いで、蒸米を担ぎ駆け上がっていく姿が目に浮かぶ。

   

           阿弥陀車(あみだぐるま) (◇)                 大桶 (◇)
   

            麹室(こうじむろ) (◇)                  樽詰め (◇)

実際に使われていた約500種類の道具の展示と、実物大の人形が作業や食事の風景をリアルに説明している。 見学コースの終点は「きき酒コーナー」。資料館でしか飲めないという搾りたての生原酒で利き酒体験をする。

まず、目でじっくり、酒の色調や透明具合(テリ)をみる。 次に鼻で香りを確認して、口に含み、舌の上でころがして、おもむろに喉へ送る。 喉越し、後味の余韻を楽しむ。 旨い! 甘露、甘露。

朝に訪ねた能福寺で、副住職から、仏教では雨のことを甘露というとお聴きしたが、生身の身体にはこちらの甘露が有難い。 

きき酒効果なのか隣の売店がにぎわう。お酒をはじめ、奈良漬、酒粕入バームクーヘンなどのお菓子、ぐい呑みセットなど…。 

これで、本日予定していた所すべて観てまわった。 南京町のちょっと珍しい物、造酒屋ならではの品々などをお土産に神戸を後にする。

神戸という地名には馴染み深いが、実際にどんな町かは案外知らないものだ。今回、平清盛にかかわる所や、華僑は生き馬の目を抜く才覚で世界中に進出したと思っていたが、少なくとも神戸の南京町ではそんな歴史はないなど、興味深いことを知った。

 関西の3つの都市を言い表すのに、“大阪の食い倒れ、京都の着倒れ、神戸の履き倒れ”というのがある。「神戸の履き倒れ」は、靴の産業が盛んなことからだろう。そのあたりも探訪したいものだ。

大岡昇平の恋愛小説に、『武蔵野夫人』というのがある。この小説の存在を知ったのは高校生の頃だと思うが、なぜか題名を「武蔵野夫人と芦屋マダム」と間違って記憶していた。芦屋は「夫人」よりも「マダム」が似合うモダンでオシャレな町のイメージがあったからだろうか? そんな神戸に触れる旅もしてみたい…。



<写真>竹内一朗(◇) 下田紘一(☆) 永野晴朗(無印)    <文>永野晴朗