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☆第55回 吉備津神社と倉敷美観地区散策の旅 |
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平成23 (2011)年11月24日(木) |
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参加者43名
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今年の掉尾を飾る例会は、弥生時代以降畿内に匹敵する先進地帯だった吉備の国
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優美な比翼入母屋造本殿と拝殿、森厳な回廊と御釜殿の吉備津神社拝観
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江戸期天領として栄え、開国するや欧米文化と福祉を取り込んだ
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倉敷美観地区散策と豪華昼食堪能の旅
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君待つと 我(あ)が恋ひ居(を)れば 我(わ)がやどの 簾動かし 秋の風吹く
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額田王 万葉集巻4相聞488
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大君のお出ましを心待ちにして わたしが恋の思いに 胸をときめかしていますと
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わが家の戸口の 簾を動かして 秋の風が吹いてくる
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万葉の時代、通常「秋の風」というと、[秋]を[飽き]にかけて、男女の愛情がさめることを指し、体にも、心にも寒い風だそうだが、この歌の場合は、新しい男性関係への期待が込められているので、通常の
「秋の風」ではなく、うれしいこと、楽しいことを運んでくる秋風といえる。そんな秋風に乗って今年の掉尾を飾る旅に出掛けた。
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変わりやすきは秋の空、心配していたが「雲量1」の快晴だ。行楽シーズンの真っただ中、とりわけ震災の影響で西日本の旅行会社は忙しいそうだ。そのためか今回はどうしても添乗員の都合がつかなかったが、そこは気心の知れた仲間同士、気安く「報連相」でいきましょう!運転手さんの挨拶と注意・お願いがあって、いざ出発進行!!
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国道171号線を茨木へ。しばし車内はお喋りの渦。頃合いをみて、今日の予定や来年の企画への思いを代表が熱く語る。高速に入って、いつものように配布資料の説明。旅の期待が高まる。
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北摂文芸クラブでは、高槻・茨木を起点として、東西南北に日帰りの旅を続けているが、今日は西行きの一番遠い所になる。山陽自動車道に入って山々が、遠く、近く、展開する。今年は暖かくまだモミジしていないが、山を眺めるのはいい気分だ。道路工事で何回か徐行したがほぼ予定通り吉備津神社に着いた。
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【吉備津神社】 鎮座地:岡山県岡山市吉備津931
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吉備津神社は岡山市北区の、旧備中国と備前国の境にある吉備中山(きびのなかやま)の北西の麓に北面して鎮座している。大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)を祀る山陽道屈指の大社で、古来、吉備国開拓の大祖神(おおおやがみ)として尊崇され、殖産興業・交通安全・延命長寿などに霊験あらたかとして、朝野の信仰が篤いという。
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本殿と拝殿は結合され、屋根は共に入母屋造で、2羽の鳥がその翼を並べているように見えることから、比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり)という。深い絆を思わせるいい響きだ。また、平入(ひらいり)の2棟を結合した形態は他にないので、吉備津造(きびつづくり)ともいうそうだ。 |
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屋根は桧皮葺(ひわだぶき)。耐用は50年ほどで、つい数年前に葺き替えた。艶やかな檜皮屋根で菊の紋章が黄金色に輝いている。祭神が皇族(高霊天皇の第3皇子)なので菊の紋章があるわけだ。本殿と拝殿は共に昭和27年3月、国宝に指定されている。
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檜皮葺き替えが平成20年10月に完了した比翼入母屋造の本殿と拝殿(国宝) (◇)
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吉備津神社の由来や神事など神官のお話に引き込まれる (◇) |
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祭神の大吉備津彦命は、都にいる頃、五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)と呼ばれ、 崇神朝(すじんちょう)の四道将軍(しどうしょうぐん)の中で随一と記紀に著されている武将。
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その五十狭芹彦命が吉備に来たのは、異国から空を飛んできた一丈四尺(約4.2m)にもおよぶ大男で、性格荒く、船や婦女子を襲う「温羅(うら)」という、鬼のような異相をした乱暴者を討伐せよ。と朝廷から派遣されたためである。
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変幻自在な温羅に対し、五十狭芹彦命も自在に攻め立て見事征伐する。それ以来、吉備津彦命と呼ばれるようになり吉備国の大祖神となったわけである。この征伐が後に、「桃太郎の鬼退治」というおとぎ話になったとされている。
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吉備津神社の魅力は何と言っても本殿と拝殿の比翼入母屋造だが、本殿から約200間(けん)、360mほど真っ直ぐに伸びる回廊も素晴らしい。私は二度目になるが、ほれぼれと見入る眺めだ。中ほどから右に枝分かれした回廊の先端に御釜殿(おかまでん)がある。
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回廊の通路 (◇) |
回廊の外観 (◇) |
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御釜殿は、有名な「鳴釜(なるかま)の神事」(釜うらない)が行われる所。この神事も、あの鬼、「温羅」に関わっているから面白い。
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命(みこと)は捕えた温羅の首をはねて曝(さら)すが、不思議なことに温羅は大声で唸(うな)り続ける。いろいろ手を尽くすが一向に止まない。近郊の村々に鳴り響き、温羅は死してなお人々を困らせる。 |
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命が困り果てていたとき、夢枕に温羅の霊が現れ、わが妻の阿曽媛(あそひめ)をして釜殿で饌米(せんまい)を炊いて供えよ。何か事があるとき竈(かまど)の前に来れば、吉凶禍福によって、釜は「ゆったり」と、また、「荒く」鳴るであろう。と告げる。命がお告げ通りにすると、唸り声も治まり平和が訪れたという。
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これを起源として、「鳴釜の神事」が行われるようになった。江戸時代の後期、上田秋成(うえだあきなり)の怪異小説、『雨月物語』の「吉備津の釜」によって天下に知れわたり一層有名になる。吉備津神社のホームページでは次のように案内していて、現在でも多くの方が、“鳴釜神事・釜うらない”に安らぎを求めていることが伺える。
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御釜殿の拝観・神事のお知らせ
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毎週金曜日はお休みさせていただきます。神事ご希望の方は午後2時ごろまでに受付をして下さいます様お願いいたします。 |
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神事は神官と阿曽女(あぞめ)の二人で行う。竈の釜で湯を沸かし、蒸籠(せいろ)を載せ常に湯気があがっている状態にする。祈願した神札(しんさつ)を竈の前に祀り、阿曽女は神官と竈を挟んで座り、神官が祝詞(のりと)を奏上するころ、蒸籠の中で器に入れた玄米を振る。
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そうすると不思議なことに、鬼の唸るような音が鳴り響き、祝詞が終わると、ピタッと音が止むという。この音の大小長短により吉凶禍福を判断するわけだが、神官や阿曽女が何か言うのではなく、祈願者自身が心でその音を感じ判断することになっているそうだ。
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御釜殿は、入った所の広間が祈願者の座る場所、続く板の間が神事エリア。そこには釜二つ分の竈が据えられていて、一つの釜に蒸籠が載せられ湯気をくゆらせていた。 |
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丁度、阿曽女さんが居て体験談を話してくれた。毎回釜の鳴り方は違う。全く鳴らない場合もある。また、場所によって聞こえ方も変わるので、釜の傍の私や神官と祈願者の聞こえ方は異なる。それゆえ、祈願者自身が判断するしかないわけである。実際に、「よく聞こえた」と喜ぶ方、「聞こえなかった」と残念がる方、様々だそうだ。 |
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宇賀神社の神池 |
犬養木堂像 |
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御釜殿脇の門から外に出ると、道路を挟んで宇賀神社があった。神池に枝垂れ松が美しい影を落としていた。
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その隣に憲政の神様、犬養木堂(ぼくどう)の銅像が建っていた。犬養木堂とは、「話せばわかる」で有名な犬養毅(つよし)首相のことで、“木堂”と号した。岡山県の出身で、この吉備津神社からほど近い所に、犬養木堂記念館と生家(国の重要文化財)があることを、この拙文作成過程で知った。
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御釜殿を出てバスへ急ぐ 抜けるような秋日和がうれしい (◇)
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犬養毅は明治中期から昭和初期にかけて活躍した政治家。軍閥が台頭するなか、昭和6年12月、76歳のとき元老・西園寺公望(きんもち)等に推されて第29代の首相になり、満州事変後の難局にあたった。
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翌年の5月15日、夕方5時半ごろ、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団が、ピストルをふりかざして乱入してきた。犬養は少しも慌てず、将校たちを応接室に案内した。しばらくして応接室から「撃つぞ」「撃て」という叫びが聞こえ、ピストルの音が響いた。女中たちが駆けつけると、犬養は鼻の穴から血を流しながらも意識ははっきりしており、「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と言っている。
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最期まで言論で説得しようとする犬養らしい姿だった。このとき喋ったとされるのが有名な「話せば分かる」である。決してぶれることなく、生涯を通じて政党政治を目指し、清廉潔白で井戸塀といわれた偉大な政治家の銅像を拝する機会を得たのは、 予期せぬ幸運であった。
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今日のコースは、第22回例会と同じで9年ぶりの訪問になる。初めての方が多いが2回目の方もいる。旅は処女地をよしとするが、再訪問で新たな発見をするのも旅の醍醐味だ。
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【昼食 「和久・庄屋」】 倉敷市下庄字道町471-1
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倉敷方向へバスで15分ほど行くと、本日の食事処「和久(わきゅう)・庄屋(しょうや)」へ着いた。“食文化の粋を求める和久”グループの庄屋店。ここでは、瀬戸内の新鮮な旬の味の和食会席が主流だが、和食会席と牛肉料理のコラボを味わうコースもある。
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まずは食前酒で乾杯 (◇)
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和食会席と焼肉のコラボ
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先付のいろいろと前菜盛。瀬戸内のとれとれ造りに天ぷら・茶碗蒸し。和食会席定番の品々を頂いている合間に、柔らかい和牛焼肉。酢の物・吸い物・香の物にご飯。果物王国岡山ならではの美味しいブドウとミカンのデザート。 う~ん。極楽。極楽。満足。満足。
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【倉敷美観地区】
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賑やかに、ゆったりと昼食を摂って、倉敷美観地区へ。倉紡記念館の方から「お待ちしています」と携帯電話が入る。今回添乗員さんは同乗していないが、我々が行く先々に電話を入れ、遠隔手配をしてくれているのだ。吉備津神社でも、和久・庄屋でも。なんとも有難いことである。30分ほどで倉敷アイビースクエアの駐車場に着いた。
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美しいアーチの前でより美しく (◇)
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美しいアーチの前でそれなりに (◇)
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アイビースクエアの入り口で記念撮影をして、待機してくれていた方の案内で「倉紡記念館」を見学する。
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明治時代、米と綿花以外取り立てた産業がない倉敷村の情景を見て、3人の若者がこの村に紡績工業を興すことを決意。経営の見通しについて調査思考を重ね、資金提供を大地主の大原孝四郎に依頼。孝四郎はその構想を理解し出資を承諾。こうして貧村倉敷に紡績所が設立され大きく羽ばたいていった。
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記念館では5室にわたり、写真・模型・文書・絵画などによって紡績産業の時代の移り変わり、倉紡の歩みが綴られている。感想を話しながら、頷きながら、熱心に観てまわる。見学の後は、思い思いにアイビースクエアや倉敷川沿いを散策し、景観やショッピングを楽しむ。
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駐車場からのゲート |
アイビースクエアへのゲート |
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アイビースクエア内の窓 |
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アイビースクエアは、名の通り蔦(つた)が主役だが、様々なアーチが景観を引き締めている。
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工場建設の説明板 |
蔦が甘味料だったこと初めて知った |
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白壁と川辺の柳に倉敷を実感する |
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龍神信仰だろうか 橋に龍が彫られていた |
倉紡製品原綿積み降ろし場跡 |
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大原家別邸 有隣荘
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倉敷川を挟んで大原美術館と向かい合うように、大原家別邸・有隣荘(ゆうりんそう)が建っている。
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ボランティアガイドさんの話によると、ここは大原孫三郎さんの奥さんの館。病弱な奥さんのために建てたもの。大原美術館は昭和5年に5万円で建てたが、ここはその2年前の昭和3年に5倍の25万円もかけて建てた。
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屋根瓦は大阪の泉州で作ったもの。1200~1300℃で焼いているので、83年たっても新品のような色艶をしている。現在だと1枚4~5万円するだろう…。中は観られないのかと尋ねると、春秋2回公開されるとのこと。
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帰って調べてみると、内装デザインはあの児島虎次郎、庭園は平安神宮や山形有朋邸などの名園を手掛けた小川治兵衛、屋根瓦の緑色が目立つことから「緑御殿」とも呼ばれている。また、平成9年から春と秋に大原美術館主催の特別展示室として一般公開している。などのことが分かった。是非観たいものだ。
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今回は、吉備津神社に古代の文化を訪ね、倉敷美観地区で近代国家へ躍進していく姿を観た。また、はからずも犬養毅の銅像にも出会った。いつの時代でも、先人は物心両面の貴重な財産を後人に遺してくれていたと思う。
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それに引き換え、現代の日本はどうだろう? 毎年赤字国債を発行し、気の遠くなるような借金を後世に押し付けている。せめて「心」の方でもと願っても、「恥の文化」も今は昔。 |
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しかし、3月11日に襲った未曾有の震災では、日本人の精神文化が生きていることを証明した。もうすぐ新しい年を迎える。心新たに精進し、また楽しい旅を続けたい。
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<写真>竹内一朗(◇印) 永野晴朗(無印) <文>永野晴朗
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