☆第46回 紀伊初秋の旅 和歌山城・根来寺・総本家駿河屋 |
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和歌山城の歴史と眺望を楽しみ、とれとれ海鮮会席料理に舌鼓 |
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根来寺の大塔(多宝塔)の巨大さと繊細さに感動 |
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総本家駿河屋で老舗の味ゲット |
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〔 平成21年9月25日(金) 〕 参加者30名 |
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平成9年8月にスタートした松愛会北摂文芸クラブ、12年目の今年5月、発起者であり主宰者であった原春二さんがお亡くなりになりました。 これまで45回の例会は、原さんの豊富な知識・見聞から、訪問先を世話役会に提案され、2府11県に及ぶ広域の、神社仏閣・国宝・伝統工芸・絶景・グルメなど実に多彩な旅を楽しむことが出来ました。 お世話になった原さんに感謝するとともに、謹んで哀悼の意を表します。 大黒柱を失って、一時はクラブの存続が懸念されましたが、ありがたいことに、3人の方が新しく世話役になって下さいまして、約半年遅れとなりましたが、ようやく例会が開けることになりました。 |
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久し振りの例会のためか皆さん早く集まって下さり、定刻10分前にJR茨木駅西口の摂津水都信用金庫前を出発した。新生「北摂文芸クラブ」の門出を祝うかのごとく、初秋の空は澄みわたり、日本晴れである。 |
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クラブ発足以来世話役をして下さっている馬場美代子さんから、新しく文芸クラブの代表になって頂いた竹内一朗さんを紹介。 それを受けて、竹内さんから原さんが亡くなってから今日に至る経緯と、本日のタイム・スケジュール、昼食の後に今後の相談も含めた会合を持ちたいとのお話。 |
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次いで、いつものように配布資料について永野世話役より説明。 |
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@作品集第14号について。 |
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投稿された、俳句・川柳・短歌および、前回の例会(御在所岳の紅葉・温泉等)活動報告書掲載。 | |||
A癒しの詩人「坂村真民」の生涯について。 |
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B本日の訪問先の資料(見どころ、逸話など)の話。 |
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和歌山県へは、 第3回(H10.3.5)の「長保寺・紀州漆器・黒江街並み・料亭“美登利”会席料理」、 第30回(H16.11.18の「高野山・宿坊“一乗院”精進料理」 に次いで3回目、5年ぶりの訪問になる。 | |||
寺院の塔といえば五重塔が一般的で、多重層の外観と地震や台風でも倒れない構造の見事さは、国語教科書の「五重塔」(幸田露伴著)で知ったが、もう一つの塔「多宝塔」を初めて観たのが紀州徳川家の菩提寺「長保寺」であった。 |
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長保寺多宝塔(国宝)は、均整のとれた外観から、やさしさ・柔らかさ・包容力、そんなものを感じさせた。以来、寺院の建物のなかで多宝塔が一番美しいと思うようになった。 又しても、長保寺で盛んにシャッターを切っていた原さんを想い出す。 そうだ、そうなんだ、原さんは多宝塔だったんだ…。 いつもニコニコ、やさしく大きな包容力で接してくれました。 |
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同じような感慨をもっておられる方から俳句が寄せられた。 |
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《 友しのぶ三度の紀伊や一葉散る 》 (◆) |
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和歌山県は畿内に隣接しているため、畿内より半歩遅れる早さで外来文化が根付いてきた。黒潮による温暖と豊富な雨量が、平地が狭く急峻な山地の森林を育て、古くは「木の国」と言われた。 |
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牟婁(むろ)の湯(現、白浜湯崎温泉)や景勝地和歌浦は大宮人憧れの土地であり、1000〜2000m級の高山は山岳信仰を生み、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されている。 その他、和歌山の特徴やオンリー・ワンなど、及び、本日最初の訪問地、和歌山城の見どころなど話しながら、快調なドライブ。 |
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岸和田SAでトイレ休憩。 今回からバスガイドを割愛したので、出発前の人数把握を世話役で、しっかりやらなければならない。 10時半、和歌山城駐車場に到着。 語り部さんが二人待機していてくれた。 |
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<和歌山城> |
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駐車場で概略の説明を受け天守閣を目指す。 先ずは国の名勝に指定されている西之丸庭園、通称「紅葉渓(もみじだに)」庭園へ。 |
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この庭園は、初代藩主・徳川頼宣(よりのぶ)が城の北西隅の西の丸に隠居所の御殿と共に築いた池泉回遊式庭園である。 |
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軽妙な語り部さんのお話 (☆) 鳶魚閣 | |||
内堀の畔に池亭「鳶魚閣(えんぎょかく)」が配され、遠くには二の丸と西の丸を結ぶ御橋廊下(おはしろうか)が見える。今の時季でも一瞬息を呑む景観だが、紅葉のシーズンは名の如く見事なことだろう。 |
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紅葉渓庭園は江戸初期築造の大名庭園にして、日本屈指の名園と評されていたが、明治維新後は長らく荒廃していた。 およそ100年後の昭和45年、城郭内に現存する庭園の遺存例の希少性もあって、文化庁主導の下、大掛かりな発掘調査と復元整備が3年かけて行われた。 |
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発掘調査で茶室の遺構が確認されたことから、この復元整備を記念して、和歌山市出身で名誉市民の故松下幸之助氏(現、パナソニック株式会社創業者)より茶室「紅松庵(こうしょうあん)」が寄贈された。 |
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パンフレットによると、紅松庵は昭和48年10月に起工し、翌年5月17日に完成、建物は木造・銅板葺・平屋数寄屋造で、茶座席・立礼席・水屋勝手・収納庫等があり、冷暖房も完備している。 特にこの茶室は、故松下氏が今日まで幾つか寄贈されたものの中でも、最も趣向にかなったもので、庵号「紅松庵」も自ら命名・染筆されたとある。 | |||
早いもので、創業者が亡くなられて20年になる。 元、松下社員である私たちは、直接、間接を問わず、在職中薫陶を受けたわけで、それぞれの感慨が去来したことだろう。 |
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《 紅松庵施主の遺徳萩の頃 》 (★) |
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紅松庵 御橋廊下内部 |
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その後、紅葉渓庭園は、昭和60年11月に国の名勝に指定され、平成18年4月に御橋廊下が復元された。 |
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和歌山城は、大天守・小天守・角櫓(すみやぐら)・多聞櫓などが建ち並ぶ連立天守閣で、姫路城・松山城と並んで日本三大連立式平山城と讃えられているが、近くへ来すぎたのかその美しい景観に出合わない。 天守閣は標高わずか50m弱の虎伏山(とらふすやま)に建つが、登ってみると息が弾むし、天気が良すぎて暑い。 |
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あ〜しんど(和歌山城上り) (☆) 楽ちん楽ちん(和歌山城下り) (☆) |
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《 歩をゆるめ登る坂道素風待つ 》 (◆) |
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《 つきぬけて秋天高く天守閣 》 (◆) 《 天守閣吹き抜ける秋の風 》(★) |
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ようやく辿り着いた。 仰ぐ大天守の破風が優美で且つ重厚だ。 天守閣内部は資料館になっていて、刀槍・銃などの武具をはじめ、紀州徳川家の貴重な所蔵品が展示されている。 | |||
急勾配の階段を上る。手摺がなければ上がれない。 昔の武士は、いざとなれば甲冑をつけて駆け上がっただろうから凄い。 今日はスッキリ晴れたので、市街地は手に取るように見える。遠くの島影も望める。 東西南北開けっ放しで、思わず帽子を押さえた。 |
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天守閣の1階の隅にある、「埋門(うずみもん)」と呼ばれる抜け穴(現在は閉鎖)を語り部さんが説明してくれた。 負け戦で城から脱出する際のルートになるわけだ。 沢山の城を観てきたが、天守閣からの抜け道を観たのは初めてのような気がする。 | |||
天守閣を出て、多種多様の刻印がある石垣で有名な新裏坂を経て、集合写真を撮る。 |
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松愛会北摂文芸クラブ第46回例会集合写真 (◇) |
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駐車場まで帰り、語り部さんにお礼を言う時、どうにも気になっていた池亭の名前の由来を尋ねてみた。 そうすると、「鳶飛戻天 魚躍干淵」と書いたボール紙を見せてくれ、『詩経』の言葉からの命名で、鳶が空を飛ぶ、魚が淵に躍りあがる、いずれも自然な姿だという意味。と説明してくれた。 |
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帰って、中国古典名言辞典で調べてみると、≪『詩経』 鳶飛戻天 魚躍干淵 〔鳶(とび)飛んで天に戻(いた)り、魚(うお)淵(ふち)に躍(おど)る〕 鳶は自由に天まで飛び上がり、魚はなんの恐れもなく楽しんで淵におどっている。万物おのおのそのところを得ている、世の太平の姿。≫とあった。 |
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徳川頼宣は、紀州藩の教育勅語ともいうべき「父母状」を子弟教育の指針としたほどの人物だ、隠居して池亭で憩うときでも藩のことを考えていたに違いない。だから「鳶魚閣」と命名したのだろう。 | |||
《 鳶飛んで魚は淵に跳び躍る 治世の念い閣に坐しつつ 》 (▽) | |||
<昼食 & 新体制初総会> |
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昼食は海鮮問屋「丸長」の、≪てまり御膳≫。 とれとれの魚に新鮮な海藻類。 魚のしゃぶしゃぶなるもの初めて賞味した。 |
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美味佳肴を頂いた後、1時間ほどかけて総会を行う。 先ず、今後の運営について説明。役員の自己紹介。参加会員全員の自己紹介。そして、今後の文芸クラブ活動について全員でフリー・トーキング。和気藹々のなか、活発な意見交換がなされた。 |
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てまり御膳 魚のしゃぶしゃぶ |
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美味佳肴におもわず破顔 (☆) 文芸クラブの将来を熱心に話し合う (☆) |
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<根来寺> |
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根来寺は新義真言宗総本山の寺院で、詳しくは「一乗山大伝法院根来寺」という。大伝法院はもともと高野山にあった。 |
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空海以来の学僧といわれた覚鑁(かくばん)が、鳥羽上皇の勅願により高野山に建立。 その後、覚鑁が座主になり、当時堕落していた高野山を、宗祖・空海の教義を復興することで立て直そうとして、反発する勢力と対立し、焼き討ちされ、大伝法院の荘園の一つであった現在地に移った。 |
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覚鑁没後150年ほど経って、大伝法院の学頭・頼瑜(らいゆ)が大伝法院の寺籍を根来に移したことにより、本拠地が高野山から根来に変わった。 |
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室町時代末期に最盛期を迎え、一大宗教都市を形勢する。世は戦国時代で、根来衆と呼ばれる僧兵1万余を擁し、信長や秀吉に抵抗するが、天正13(1585)年、秀吉により大師堂、大塔(多宝塔)など数棟を残して焼き討ちされた。 |
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その時の弾痕が大塔に残っていて観光ポイントになっているが、空海を祀る大師堂と大塔を守るため、もう全て炎上したと言って寄せ手を回避したから、そもそもここまで攻められなかったとして、弾痕は疑わしいという説もあるそうだ。(僧の機知で一部の堂塔が焼失を免れた話は、湖東三山の金剛輪寺でも聞いたことがある) |
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大塔へ向かう (☆) 語り部さんの説明に聞き入る (☆) |
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《 根来寺参道楚々と野菊かな 》 (★) |
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往時の根来寺の規模は400万u余りと壮大であったが、今でも山内は広い。とても全部は回れないので、大師堂・大塔・大伝法堂を拝観する。 |
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国宝・根来寺大塔(多宝塔) |
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《 根来寺大塔目映し今日の秋 》 (◆) |
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《 大塔の前にたたずみ口惜しや 共に観ようと約し人居ず 》 (▽) |
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根来寺の大塔は、兎に角デカイ。圧倒される。どっしりと大地に根を下ろして、どんな人間でも拒むことなく、受け入れてくれる感じだ。 高さ40m横幅15m、わが国最大最古、勿論国宝である。 |
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多宝塔は一般に裳階(もこし)付き単層塔で、裳階平面が方形、中央部平面が円形のものを指すが、初層が方三間(1辺に柱が4本立ち柱間が3間あるの意)のものを多宝塔と称し、方五間のものを「大塔」と称するそうだ。 | |||
大塔の初層に入り拝観する。内部も広い。内陣が円形になっているので、敷居も円形、当然のことだが、障子も円形になっているのには驚いた。何だか非常にゆったりとした安心できる雰囲気だ。 |
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《 初層入り円き造りにその広さ 佛の胎に居りたる心地 》 (▽) |
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国重文・大師堂 大伝法堂 |
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大師堂は山内で最古の建物で、本尊は弘法大師空海上人像である。堂内には入れない。お参りだけして、右端の大伝法堂を拝観した。ここは根来寺の本堂になるので、学僧が学ぶ場として内部は広々としている。 | |||
この堂も兵火を免れたが、行き違いから解体され、京都へ向けて運ぶ途中、淀川河口で差し止められた。その地が今の伝法町とされている。その後、本尊は根来寺に戻り、江戸後期に大伝法堂が再建された。 |
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少し離れているが、本坊の庭園も拝観することにした。根来寺には2700本の桜があり、その見事な景観は、「日本の桜の名所百選」に入っているが、今は閑散としている。 年中人波の絶えない高野山とは大違いだが、本来の寺院の趣が山内を包んでいる。 西日避けの簾を垂らした拝観受付所を通って本坊に入った。 | |||
《 飴色に焼けし簾や外されず 》 (★) |
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国名勝・池泉式蓬莱庭園と本坊 |
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<総本家駿河屋> |
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煉り羊羹で馴染み深い駿河屋は、京都伏見が発祥の地。 室町中期の寛正2(1461)年、「鶴屋」の屋号で饅頭の製造販売を始めた。 | |||
天正17(1589)年、蒸し羊羹を改良した「紅羊羹」が、秀吉の聚楽第での大茶会で評判を取る。 江戸時代になり、徳川頼宣侯に召し抱えられるかたちで和歌山に移り、紀州家御用御菓子司として代を重ねる。 |
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元禄2(1689)年、5代将軍綱吉の息女・鶴姫が紀州家へ輿入れの折りに、同名をはばかって鶴屋の屋号を返上、代わりに徳川家ゆかりの地、駿河にあやかって「駿河屋」の名を授かる。 | |||
その駿河屋の本舗にバスを横付けしてショッピング。 お目当ては「本の字饅頭」だ! | |||
本の字饅頭 本煉り羊羹 |
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本の字饅頭は、「父母状」の ≪正直は本なり≫ から、「本」の字を引用し頼宣が名付けたと言われているもので、昔ながらの風味を伝える、酒麹の蒸し饅頭である。 |
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蒸し饅頭なので日持ちがせず、和歌山限定販売。 寄った時刻が遅かったので、もう残り僅か。 多くは買いそびれ、羊羹など他の菓子になった。 それでも近年は、本の字饅頭を冷凍で送ってくれるとのことで、その手続きをする人もいた。 店員総出で対応してくれた。 |
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《 本の字が今に伝える親に孝 三つ児に根付け不易の真 》 (▽) |
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駿河屋を最後に、帰途に就く。 | |||
今回は、考えてみると一寸不思議に思うこと、@徳川御三家の一つが何故紀州にできたか? A高野山と同じ宗旨、真言宗の根来寺が何故できたか? などの疑問が、語り部さんのお話などから、少し解けた旅だった。 | |||
発足以来、初めてのことになるが、帰りの車中で次回の案内をした。 実施日は11月27日(金)、行き先は奈良方面で、◎墨工房「アート&クラフトカンパニー呉竹」、◎白鳳の伽藍が現代に甦った「薬師寺」、◎茶筅・一刀彫など6つの伝統工芸を頑固に受け継ぐ匠の技と、ショッピングが楽しめる「がんこ一徹長屋」、◎昼食は萱葺き食事処で大和風味の会席料理、などと概略をお話した。 | |||
街に灯がともるころ、茨木に無事帰った。 |
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盛りだくさんな見どころ、盛りだくさんな料理、盛りだくさんな会話、 |
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そんな一日でした。 |
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<俳句>桐山俊子(◆印) 井元純子(★印) <短歌>永野晴朗(▽印) | |||
<写真>佐古年夫(☆印) 竹内一朗(◇印) 永野晴朗(無印) <文>永野晴朗 |
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