☆第44回 伊勢河崎の町散策と内宮参拝
伊勢の台所として栄えた河崎の町で伊勢文化の跡を辿り 日本人の総氏神ともいわれる伊勢神宮の内宮参拝 おはらい町・おかげ横丁の見物 〔 平成20年9月4日(木) 〕 参加者26名
“伊勢へ七度、熊野へ三度、愛宕さまへは月参り” お馴染みのお伊勢さんではあるが、老境に至っての参拝は新たな感慨が生まれることだろう。 また、住民が行政をリードして保存再生してきた河崎の町並みを見るのも楽しみである。 今年の夏は珍しいことに、まだ台風が来ていない。しかし、かつてないような集中豪雨が連日のように各地で発生している。高槻は快晴だが、伊勢も穏やかであってほしいものだ。 今回から道路交通法の改正(2008.6.1施行)により、シートベルト着用になった。バスガイドさんは前を向いて坐ったまま喋らざるを得ない。我々も同様で座席に縛り付けられた感じだ。 “白露の日シートベルトにいのち託す” (★) 世話役の案内も対面してお話が出来ないので勝手が違うが、タイムス・ケジュール説明。続いて訪問地資料・作品集の説明、それに会員の馬場美代子さんが支部ホームページの「輝く人々」に掲載されたので、コピーを配布し、紹介と当初からの文芸クラブ世話人の労に感謝した。 バスは京滋バイパス、今年の2月23日に開通した新名神、伊勢自動車道を快調にドライブ。2時間余りで河崎に着いた。 <河崎のまち> 河崎は、戦国時代初期の長享年間(1487〜89)に、豪士・河崎宗次が勢田川のほとりの葦原を埋め立て、防衛のため四方に惣門(外構えの大門)を設け、惣堀(環濠)を備えた町を造ったことに始まる。 その後、江戸時代には参宮客で賑う宇治山田に、水運を利用して大量の物資を供給する大問屋街として発展し、明治時代まで伊勢商業の中心を担っていたが、陸上輸送が活発になるに従い衰退。 さらに昭和49年の七夕水害による河川改修のため歴史的な建物が減少するが、住民の保存運動により、石積みの蔵や商家・町屋の建物などの町並みに、当時の面影を感じることができる。
“岸たどり葦原しのぶ水鏡” (△)
全国第1号の川の駅「河崎」
伊勢河崎商人館では2人のボランティアガイド(柴田勉・西村とめ)さんが迎えてくれ、2組に分かれて見学することになった。 中に入って敷地の広いのに驚いた。小川商店は造酒屋の老舗だけあって、蔵7棟、町家2棟が建ち、延面積は約1000uというから凄い。 伊勢では、伊勢神宮のおかげで生活が成り立っていると昔も今も思っている。そのため町の家々は神宮の社殿に敬意をはらって同じ平入の建て方を避け、妻入にした切り妻の瓦屋根になっているが、ここでも妻入の建物が軒を連ねている。 伝統的な町家の外壁を覆う杉の黒い刻み板は、なんとも優雅に「濡れ鴉」と呼ばれている。これは煤と魚油を混ぜたもので、防風防雨また防虫の効果もある伊勢地方独特の塗料である。 “濡れ鴉町家訪ねる九月かな”(◆) “幾野分耐えて艶増す濡れ鴉”(△)
門符とは、この地方で注連縄に付けられる木札のこと。注連縄と同様に災いを防ぐ役割あるとされ、その意味を持つ文字や記号が書かれている。 河崎では@蘇民将来子孫家門 A笑門 B千客万来 C久那戸之神 の4種類を見ることができる。これらは一年間家の入口などに掛け年末に新しいものと取り替えられる。
山田羽書(はがき)
山田羽書は中世以来、商業の発達した伊勢山田地方で流通した日本最古の紙幣。発行者は伊勢神宮の御師。整備された発行制度が信用され、明治維新後も発行されたが、新政府による明治4年の藩札処分にあわせてその歴史を閉じた。
河崎商人館の大通りで西村とめさんの話に聞き入る (◇)
“伊勢言葉語るガイドや秋扇” (◆)
創業天保元年(1830年)の老舗で味わう佳肴
“ミニ懐石至福のひととき草の花” (◆)
“もう少し欲しい量しか出ぬ老舗” (▲)
<伊勢神宮内宮参拝> お伊勢さんは格式的に別格なので、正式名称は単に「神宮」というそうだ。その神宮は皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)を中心に14所の別宮、109所の摂社・末社・所管社から成り立っているとパンフレットにあった。 内宮は皇祖天照大神をお祀りしている。天照大神は歴代の天皇がそば近くで祀っていたが、第10代崇神(すじん)天皇の御代に皇居を出て、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀られた。ついで各地をご巡幸の後、第11代垂仁天皇の26年(約2千年前)現在の地に鎮座されたという。 外宮は豊受大御神を祀っている。第21代雄略天皇の22年(西暦5世紀)、天皇の夢枕に天照大神が現れ、丹波国の食物・穀物を司る豊受大御神を近くに呼び寄せよと言われたことによる。豊受大御神は天照大神の大御饌(おおみけ:食物)の守護神であり、私たちの生活を支える一切の産業の神とされている。 今回は時間の関係で内宮のみの参詣になった。折悪しく雨になったが、ひどい降りではない。雨が降ると玉砂利に足をとられにくく、埃も立たないのでいいですよ。とバスガイドさんに励まされて宇治橋を渡る。
“内宮の玉砂利濡らす秋時雨” (◆)
宇治橋と五十鈴川 (◇)
宇治橋は全長108.8m、幅8.421m。橋脚がケヤキ、他はヒノキの反り橋で欄干の上には16基の擬宝珠(ぎぼし)を据えている。 橋の外と内に高さ7.44mの大鳥居が立っている。内側の鳥居は内宮の旧正殿の棟持柱が、外側の鳥居は外宮のものがあてられている。遷宮は20年毎なので、20年たつと鈴鹿の「関の追分」、桑名の「七里の渡し」の鳥居になり、都合60年の勤めを果たすという。 一般人は正殿には入れないが、ここで棟持柱を見ることが出来るわけだ。傍に行くと巨大さが実感できる。この鳥居と擬宝珠を撫ぜてお願いをしなさい、必ずご利益がある。と西村とめさんに言われていたので撫ぜさする。
“鳥居擬宝珠を撫で秋の橋渡る” (★)
内側の鳥居をくぐると、雨に濡れ鮮やかな緑の松が続く。徐々に厳かな気分になっていく。雨なので五十鈴川の御手洗場はやめて、手水舎で身を清める。このあたりから参道の両側は深い森になる。ウイークデーだというのに参拝者が絶えない。かなりの人波だが静かである。
“杉木立心洗わる秋の雨” (◆) “雨烟る聖なる森を連なりて 共に踏みしむさざれしの道” (▽)
御饌殿で打ち揃い撮影 (◇)
全員撮影の後、本殿に向かう。桧の大木が参道に何本も聳えている。根元の幹は竹板で覆われている。初詣などの人波から守るためだろうか。
ここから先は立ち入り禁止。唯一神明造の正殿はこの奥になる。やむなくここで参拝。
“水澄むや只管(ひたすら)神に祈りけり” (★)
参拝者の流れは本殿前を左に進み、平成25年の遷宮場所に行く。遷宮行事は、すでに平成17から始まっている。 伊勢神宮式年遷宮広報本部 公式ウェブサイトによると、 <遷宮行事は、山口祭、木本祭に始まり遷御、奉幣、御神楽に至るまで30に及ぶ祭典・行事が行われます。その内12の主要な祭典については、日時等につき「御治定」(天皇陛下のお定め)を仰ぎます。 又、伊勢の地元民を中心とした国民参加の行事として「お木曳き行事」「お白石持行事」が行われます。> とある。 なお、一般人が参加できる「お白石持行事」については、 <お白石持行事(おしらいしもちぎょうじ) 完成した正殿 ( しょうでん ) が建つ御敷地(みしきち)に敷く白石を奉献する行事。(中略) 地元の旧神領民に加え、全国の「一日神領民」も参加します。前回 ( 平成五年 ) は二十一万人が参加しました。> とあるので、我々でも参加が可能であるし、参加すれば新殿を拝観できるわけである。
ちなみに、今年の行事は「鎮地祭(ちんちさい)」のみとなっている。 <鎮地祭(ちんちさい) 新宮 ( にいみや ) を建てる 新御敷地 ( しんみしきち ) で執り行われる最初の祭儀で、御造営作業の安全を祈り新宮の 大宮地 ( おおみやどころ ) に 坐 ( ま ) す神をまつります。> とある。 帰りは来た道とは違う。参拝者が多いので一方通行にしたのだろう。従って後で見るから、まず参拝、と先を急いではいけない。 お伊勢さんには「神馬」と「神鶏」がいると聞いていた。白馬の神馬は他でも聞くが、ニワトリは珍しい。おそらく神話からのものだろう。(天照大神が天岩戸に隠れた時、神々は岩戸を開かせるため祭りをして大騒ぎをする。このとき常世(とこよ)の長鳴き鳥を集め鳴かせた)。 通常であれば、たくさんの神鶏が人々に怯えることなく歩きまわったり、鶏同士の喧嘩も見られるらしいが、あいにくの雨でおとなしくしていた。
“秋雨に一群神鶏軒の下” (★)
<おはらい町・おかげ横丁散策> ここでは自由行動とし、それぞれ買い物・食べ物・見物を楽しんだ。
赤福本店
“伊勢土産求むる路地や秋暑し” (◆)
“秋めけるおかげ横丁で赤福食す” (★) “赤福は驕りを捨てて客拾う” (▲)
誰もが知っている伊勢神宮 それなのに詳しくは知らない伊勢神宮 そんなお伊勢さんの帷を少し開けた旅でした
俳句:井元純子(★印) 桐山俊子(◆) 永野晴朗(△) 川柳:永野晴朗(▲) 短歌:永野晴朗(▽) 写真:竹内一朗(◇印) 永野晴朗(無印) 文:永野晴朗