☆第39回  郡上八幡

奥美濃の城下町 山あいの清流の町 幼き日々を想い出すよな 心なごむ町

そんな郡上八幡の春を訪ねました

〔 平成19年4月6日(金) 〕 参加者37名

花冷えの朝、7時55分高槻市役所前を出発。天気晴朗にして風おだやか、絶好の行楽日和。 楽しい旅の予感に心弾み、車内は笑いが絶えない。 2月の異常な暖かさで、桜が早いと予測されたが、帳尻を合わすかのように3月が寒く、ほぼ例年の開花となった。 車窓からの桜に歓声をあげ時を忘れる。

 快調なドライブで「ホテル積翠園」に到着。ここは城がある八幡山の中腹で本日の昼食場所。 


【郡上八幡城】

まずは登城することにした。九十九折の上り坂に息が弾む。八分咲きの桜が迎えてくれる。 海抜353.95m。市街地より129.75mの標識あり。

              “八幡城仰ぐ姿も長閑なり(◆)    “八幡山へ清明の空仰ぎつつ(★)


  郡上の歴史は鎌倉初期の1221年、下総国(千葉県)香取郡東の庄、千葉氏の支流東胤行(とうのたねゆき)がこの地を賜り、郡上東家の初代となった頃から動きだす。
  1409年7代益之が赤谷山に築城。その後、天文年間(1532〜54)、13代常慶(つねよし)は八幡山と向かい合う東殿山に築城したが、1559年支族の遠藤盛数(えんどうもりかず)に滅ぼされ、およそ340年も続いた名門東家は滅亡。盛数は八幡山に城を築き、郡上八幡の城下町としての歴史が始まる。
  明治4年の廃藩置県とともに廃城となった城は、石垣を残してすべて取りこわされた。現在の木造4層5階建の天守閣と隅櫓は、当時国宝であった大垣城を模し昭和8年に建てられたもので、木造再建の城としては日本最古といわれている。


天守閣を狙って競いシャッターを切る そして ハイ ポーズ 

天守閣の内部には、慶長5年遠藤慶隆と稲葉貞通との戦い「郡上八幡城合戦絵図」をはじめ、初代八幡城主遠藤盛数の娘とされる山内一豊の妻千代の肖像画・青山家ゆかりの品などが陳列されている。


  “春の風城にのぼりて千代女かな(★)


奥女中が遊びに使用していた貝合わせ

天守からの眺めは、郡上八幡が四方を山に囲まれた、小さな盆地であることを教えてくれる。

昼食のホテルへ九十九折を下る。

どこかで“ホーホケキョ”と上手になった鶯の声、春深し。

【昼食】

山の幸を主体にした料理。 身体にいいものばかり。 これで、天麩羅や焼き魚が温かかったらいうことなし。 他に団体客はなく、大広間で賑やかに頂く。

食後、観光コースの起点、終点になる「郡上八幡博覧館」へ移動。 ここは大正時代の旧税務署の外観を残した建物で、内部は「」「歴史」「わざ」「おどり」のコーナーに分かれ、展示も係員の説明も手際よく、郡上八幡のことがよく分かる。 最後に郡上おどり実演コーナーへ。


【郡上おどり】

郡上おどりに魅せられて、京都のど真ん中から移り住んだという娘さん? が、それぞれの特徴を説明しながら3曲踊ってくれた。


郡上おどりは、曲数が多く(10曲)、開催期間が長い(7月はじめから9月はじめまでの30夜、旧盆4日は徹夜踊)のが特徴。 郡上踊りの起源は定かでないが、庶民の懐柔策として藩が奨励したことが発展のきっかけ。 旅芸人や伊勢参り、京へ江戸への行き来で、城下町は賑わい、各地の踊り唄、座敷唄が伝えられ、それらもアレンジして加えたので、踊りが多くなったと考えられる。
  踊りの歌詞は男女の情愛を挿みながら、郡上八幡の名所や伝説、盛んだった馬の飼育や養蚕、悲しい歴史の「郡上宝暦騒動」や「凌霜隊」などを物語のように順序だてて唄っている。
  従って10曲とも歌詞が驚くほど長い。長い歌詞をつけいるのも特徴といえる。

(◆)
奥美濃の郡上の里の京の人 手振り足踏み跳ねる春駒

【城下町めぐり】


承応元年(1652)、町全体を焼き尽くす大火事が起こった。6代城主遠藤常友(つねとも)は寛文7年(1667)本格的な復興を手がけ、4年がかりで小駄良川の上流から水を引き入れ、生活用水と防火の目的で、城下の町並みに沿って縦横に走る水路を建設した。 
  また、近在の寺院を城下に集めて「八家九宗」を形づくり、辻の突き当たりに配置して戦時のための防禦にあてた。 通りの突き当たりに寺があり、道の両側を水路が走る景観はその名残を伝えるものである。



☆古い町並み

どの家も隣家との境に、屋根の軒出しを支えている三角の袖壁がある。 
  これは長屋のように密接した家々の防犯や延焼を防ぐもの。
  別名「猫這い止め」ともいうそうだが、云い得て妙。

永き日の歴史と遊ぶ城下町(◆)

(◆)

☆宗祇水 (別名 白雲水)

文明3年(1471) 、郡上領主の東常縁(とうのつねより)から古今伝授をしてもらった連歌の宗匠・飯尾宗祇(いいおそうぎ)が京へもどるとき、当時の二大歌人である二人が、この泉のほとりで歌を詠み交わしたという史跡。  

                  “もみじ葉の 流るるたつた白雲の 花のみよし野思ひ忘るな  常縁

               三年ごし 心をつくす思ひ川 春立つ沢に湧き出づるかな   宗祇

環境省選定の「日本名水百選」の第1号に指定されたことで有名な湧水。
  郡上八幡は「名水の町」に指定され、町のいたるところで美味しい水を飲めるが、ここの湧水は別格扱い。

 “春うらら宗祇水汲む列の中(★)

 “名水や人がふくらむ春日差(◆)


☆吉田川

 長良川の支流で市街地の中央を流れる清流。
夏場、子供たちの飛び込み遊びでお馴染みの新橋が見える。 
 子供のころ学校前の川がプールがわりで、橋からよく飛び込んだことを想い出す。
 近年、飛び込みコンテストが行われるようになり、仮装など趣向をこらして競うそうだ。

幼日に競い飛び込む故郷の川 想い浮かべてしばし佇む

☆さんぷる工房

  飲食店の店先で食欲そそる「食品サンプル」の工房を初めて見学した。もともとのアイディアはこの町で起こり、全国の大半を生産する地場産業である。 ろう細工から始まり、現在ではビニール樹脂やシリコンゴムに材料を替え、リアルさ・芸術性を追求しているそうだ。
  昔も今も一品一品手作り。 見事に変身していく手元をみつめる。 即売もしていて、誰もが手に取って唸っている。

若者の手から生まるるサンプルは 郡上のあした担うが如


☆渡辺染物店

八幡町で「郡上本染」が始まったのは、今から約430年前。化学染料の普及により現在では渡辺染物店だけが伝統の技を守る貴重な存在。 同様に人間国宝・宗廣力三が編み出した手織りの「郡上紬」も、今では息子の陽介氏が受注のみ織っているそうだ。 苦しくとも伝統の技を絶やさないようにと願う。 本染めの作業はされていなかったが、県の有形民俗文化財に指定されている土間に埋め込まれた藍液の甕・道具類・約150年前に建てられた仕事場の見学ができた。

古くより伝え続けた技光る 郡上紬に郡上本染め

☆用水路

 
郡上八幡は用水路が網の目のように流れる水の町。 場所によって水路の形が異なるが、いずれも淀むことのない流れで、濁った水路はない。
 水路にゴミを捨てる人はいないとしても、自然からの落葉や土砂など、水を汚す要因は多いはず。それらを地道に除去、管理しているであろう。
 山国の小さな盆地なので、自然に傾斜していると思われるが、町の隅々まで勢いよく水を巡らせるには、緻密な水路設計が不可欠で、その土木技術力に感心する。     
上下2段の水路(◆)

城ある町用水路あり水草生ふ(◆)


☆いがわのこみち

子供が飛び込む新橋のほとりに、郡上八幡旧庁舎記念館がある。昭和11年建造の洋風木造2階建でレトロな趣。 内部には観光協会・特産品の展示即売・軽食コーナー・郡上おどり体験ホールなどがあるそうだ。 

この建物の横に幅約1m、深さ約80cmの島谷用水がある。その用水路沿いの生活歩道が「いがわの小径」になる。
 水路は、周辺の有志で構成された「いがわの会」によって自主的に管理されているとのことで、豊かな清流だ。
 ところどころに「カワド」と呼ばれる共同の洗い場がある。 毎日の暮らしに必要な野菜や洗濯物の濯ぎなどが行われているそうだ。 

カワド (◆)

道行く人に驚く気配の全くないアマゴと鯉の群れ

水流れ鯉とあまごの遡上せり(★)

いがわの会によって、清流を好む魚(鯉・岩魚・あまご・サツキマス・鮎など)が放流されているとのことで、いくつもの鯉の群れ、超然と孤高を持するアマゴを見た。
 水路は、人の手による管理と魚たちによる浄化で、清らかな水質を保ち、役目を果たしながら絶えることなく流れている。

 およそ2時間半の城下町めぐりをして、郡上八幡博覧館に戻る。土産を買い足す人もいる。肉桂や蕎麦、栃の実を入れたさまざまなお菓子、ハム・ソーセージ、樽醸造地味噌、甘露煮、食品サンプルの小物、etc。
 3時半、幼い日の味、肉桂飴を舐めながら帰途につく。車中、NHK歌謡ショーのビデオにあわせ懐かしい歌を口ずさむ。予定より30分ほど早く無事高槻に帰着。
 郡上八幡は、四季それぞれに、いい顔をもっている。「鯉幟寒ざらし」や、「郡上おどり」の季節にも訪ねたい。

郡上八幡出て行く時は 雨も降らぬに袖しぼる…  いい旅でした。

俳句  (◆)印:桐山俊子  (★)印:井元純子   短歌:永野晴朗
写真  (◆)印:桐山俊子  無印:永野晴朗
文       :永野晴朗



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