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第114回:7月例会 「
洛洒の竹の道から長岡宮跡を歩く 」
2012年7月12日(木) 参加者 20名
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盛夏を迎える季節に、向日市の丘陵地帯を歩き、竹林と都(みやこ)を身近かに
感じましょう。この目的のために、近場の楽々コースを設定したのでした。
梅雨の合間の雨のないことを、祈っていましたが、あいにく前夜から明け方にかけて
大雨となりました。また、朝出発の間際には豪雨に見舞われました。
ただし、本日の天気予報では、午後になれば、小雨か曇りかという、いちるの望みに
かけて、7月12日(木)、17名の皆さんが「阪急電車:京都線 洛洒口駅」の西出口
広場に集合しました。
勇気ある決断となるか、中途で中止の憂き目に遭うか、まさに消費税ならぬ、天気に
賭けた決断でした。
途中で、竹林の入口で地元からの会員が2名合流、大いに勇気づけられた一同でした。
さらに、1名が集合地で1分遅れのため、単独行で先回りして合流してくれました。
皆さん、天候など意に介さないいツワモノが集結したようです。
この蛮行が吉と出るか、凶となるかも、今日の歩きの楽しみの一つでした。
冨士永リ-ダ-より本日の行程の説明があり、竹の奥深さを楽しみに出発しました。
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ホームの「駅名標識」の支柱は、竹をイメージして、環境に配慮 |
洛西口駅ホーム:右上り線西側に
高架工事が見える |
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洛洒口駅の西広場は京都市バスのターミナル
となっている |
洛西の玄関口としても、交通の要衝になりつつある
ことがうかがえる行先表示板が駅からの出口にあり |
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向日市の自然と歴史探訪の一日としましょう~ |
これだけ集まれば天候は大丈夫と断言された! |
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◆◇『阪急電車 京都本線:洛西口駅』(らくさいぐちえき)
2003年(平成15年)3月16日に開業した駅である。 京都市西京区にある。
所在地は駅舎があるホーム北側の地名となっているが、ホームの南側は向日市寺戸町にまたがっている。
当駅およびその前後で行われる連続立体交差化事業が、2008年(平成20年)より開始、2015年度末に
全体の完成が予定されている。2010年(平成22年)には現ホームの東側に仮設ホームが建設された。
駅舎(改札口)は両ホームの河原町寄りに設置されているが、前述の理由から両ホームを連絡する
地下道や跨線橋などはなく、改札内で相互のホームを行き来することはできない。
主要な駅舎は河原町方面ホーム側にあり、梅田方面ホーム側の改札は通常は無人となっている。
駅舎入口の駅名板やホームでは竹をイメージした装飾が施されている。
かつて、この付近には1946年に「物集女駅(もずめえき)」が開業したが、1948年に廃止された。
しかし、近辺のキリンビール京都工場の閉鎖などにより、周辺の再開発の気運が盛り上がり、
また洛西ニュータウンへのアクセス駅である桂駅周辺の道路事情が悪いことなどから、
物集女駅が事実上復活する形での新駅設置となった。 |
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阪急洛西口を出て、いよいよ「向日市」に入る。
寺戸川沿いに歩きだした途端に雨が襲来。この先どうなることやら。
右折して物集女(もずめ)街道に出会う。すぐそこに淳和天皇火葬塚があります。
少し住宅街を南下すると、まるで帽子の羽根飾りのように、頂上に1本木がそびえる小山。
物集女車塚古墳だ。 |
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◆◇『向日市』(むこうし)
向日市(むこうし)は、京都府の市。
京都盆地の西南部に位置し、三方を京都市に、南は長岡京市に接している向日市。京都市と向日市は市街地が
連続しており、現地を歩いても目で市境を判別するのは困難である。
地形は、南北4km、東西2kmと細長く、全国の市では、蕨市、狛江市に次いで、3番目に狭い。
西部一帯に標高35-8Omのなだらかな丘陵地帯:西ノ岡丘陵(向日丘陵、長岡丘陵とも)があり竹林が多く、
緑地としての景観を保っています。
市の中央部は、住宅街を形成し、東部は平地て東西1.2kmの間にJR東海道線、阪急京都線、名神高速道路、
国道171号線が並行に通り、京阪神地域への交通が至便な立地条件を誇っています。
なお、1889年(明治22年)、町村制施行に伴い向日町が周辺5村(物集女、寺戸、森本、鶏冠井、上植野)と
合併。町制時の町名のよみは「むこうちょう」であったが、現在「向日町」と名のつく施設などは、
「むこうまち」と読むものがほとんどである。
明治22年4月1日の町村制施行以降、昭和・平成の大合併の時期を含めて、一度も合併を経験していない、
全国でも数少ない自治体のひとつである。
1972年(昭和47年)10月1日、京都府下9番目の都市として市制施行。 40周年である。
向日市の歴史と文化は、原始・古代にさかのほって古く、なかでも延暦3年(784)からは、長岡京の都として
日本の政治・文化の中心地となって栄え、歴史の表舞台で光ぼうを放ちました。
そして10年後の延暦13年(794)にその地位を平安京に譲りました。
京都と西宮を結ぶ西国街道沿いには商店が立ち並ぴ、乙訓地方の商業・文化の中心地として栄えました。
昭和30年代後半がら、京阪神地区のベッドタウンとして住宅建設が進み、近郊住宅都市へと発展。
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「淳和天皇火葬塚」がある |
◆◇『淳和天皇火葬塚』(じゅんなてんのうかそうづか)
物集女町出口にある宮内庁陵です。
淳和天皇は、長岡京を築いた桓武天皇の第3皇子で、
母は藤原百川の娘旅子です。 兄の嵯峨天皇の後を継い
で皇位を継承し、清原夏野ら良吏の登用を積極的に行
い、地方の政治の荒廃を正した。
また土地対策を行い、税収の増加に努めた。
また、『令義解』や『日本後紀』の編纂が行われた。
表面的には比較的平穏な時代であった。
淳和天皇は死に臨んで、葬儀を簡略にすること、また
自分が死後、鬼となってとりつかないように、骨を砕
き、粉にして山中に撒まいてほしいと言い残された。 |
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これに従い、火葬にされ天皇のお骨は砕かれて大原野西山の小塩山山頂から散骨されたと言われている。
ここは天皇を火葬にした場所とされています。
山陵を築く事を禁じられていたため「延喜諸陵式」に陵墓が記されておらず、当地には長らく小石で築かれ
た円塚のみであったが、幕末の陵墓修復の際、小塩山山頂付近に大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみね
のえのみささぎ)と称する陵墓が築かれた。 |
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このような民家の中に、宮内庁陵があるのが
「向日市」の象徴となっている |
今上天皇の火葬・合奏表明は、天皇制の根幹部分に
関する改革につながる可能性ありか |
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◆◇『物集女車塚古墳』(もずめくるまづかこふん)
物集女町南条にあり、全長約45mの古墳時代後期(6世紀中葉)の前方後円墳です。
物集女車塚古墳は丘陵から伸びる尾根を利用してほぼ東西方向に築かれています。
後円部は直径28m・高さ7m、前方部は幅38m・高さ8mの大きさです。
出土遺物には、埴輪、須恵器、土師器、馬具、刀剣類、装身具などが多くあリます。
車塚という名は、前に紹介した淳和天皇の柩を運ぶ車を埋めた塚だとの言い伝えによります。
昭和元年(1926)物集女街道の拡張によって、古墳前方部の一部が削られましたが、現在残っている部分の
全長は45メートルもある大きな古墳。
古墳全体に芝生が敷かれ、説明板も完備しており、古墳公園として整備されています。
古墳の横の方には、柩を納める部屋(玄室と呼ぶ)から延びる古墳築造当初の排水溝が露出しており、
この排水溝は今も十分機能していると、説明板には記されている。
1体+3体 の棺が埋葬されていたらしい。当然、盗掘に合っている。めぼしい宝物は既に持ち去られている。 |
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民家群の中の大きな古墳、地域に溶け込んで
いるのがすばらしい |
毎年5月に玄室まで公開されています
尋ねられたらイカガかな |
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古墳の横から西へ第2向陽小学校を過ぎると、まもなく「竹の径」を登っていきます。
景観保全のために環境を整備した散歩道である。
タケノコ採りのための整備がされて、竹林は竹の隙間が程よく空いて明るい。
色々な竹垣を見ながら、京都市竹林公園に入る。 |
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◆◇『竹の径』(たけのみち)
竹の径は、第6向陽小学校西から竹林公園までの両側約500mを市民の木・孟宗竹を使って整備した
竹垣の散策路です。
独創的な竹垣が施された散策道「竹の径」は国土交通省の「手づくり郷土賞」や新聞社の「遊歩百選」
に選ばれるなど、全国から注目を集める向日市の観光スポットとして成長しています。
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いよいよ竹林に登るための登り坂が見えてきました |
浄水場の横から、登りの開始で~す
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竹の径への案内状が至る所に立っています |
5分間?の登り完了 ― 本日の登りは終了しました |
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◆◇竹の特徴・種類』
竹は、温暖な気候を好み、熱帯から温帯にわたって広く分布しており、日本・中国・朝鮮半島などアジア
各地のほかアフリカや南アメリカでも生育する植物です。
しかし、北アフリカ、ヨーロッパ、北アメリカには見られない。
竹類は約1200~1500種もある。日本に600種余りの竹がありますが、竹の栽培全面積の67%は孟宗竹、
第2位は真竹が22.5%で、この2種で90%弱を占めています。
竹は、花の形態がイネの花に似ていることからイネ科に属しています。常緑性植物である。
だが、竹の花は滅多に開花しません(開花周期は孟宗竹67年、真竹120年)
通常、地下茎を広げることによって生息域を広げる。
竹の語源は、生長が早いことから“長生う(たけおう)”や“高生え(たかはえ)の名前からしだいに
「たけ」になったと言われます。また、成長が猛々(タケダケ)しいからという説もあります。
孟宗竹は1ヶ月足らずで直径20cm、高さ14~15mにも生育し、1日120cm伸びた例もあります。
ただし、竹は生えてから2~3ヶ月生長し、二次肥大成長はせず、竿の大きさはそのままの大きさであり、
その後は何年たっても少しも大きくなりません。
木々の緑が深まる春の頃、親竹は黄色に枯れて葉を落とす葉変わりの季節です。
そして落とした葉の後からはすでに新しい葉が育っているのです。この時期を「竹の秋」と呼んでいます。
なお、初秋の頃、丈高く伸びた若竹が鮮な緑の葉をなびかせるさまを「竹の春」と言います。
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蒸し暑い中、大汗をかきながらの登りでした |
いよいよ目の前に孟宗竹が出てきました |
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◆◇『竹取物語』(たけとりものがたり)
向日市の竹の径と言えば、『竹取物語』は忘れてはならないでしょう。
『竹取物語』は通称で、『竹取翁の物語』とも『かぐや姫の物語』とも呼ばれた。
成立年、作者ともに不詳。仮名によって書かれた最初期の物語の一つでもある。
この作品には、かぐや姫が竹の中から生まれたという竹中生誕説話(異常出生説話)、かぐやが3ヶ月で
大きくなったという急成長説話、かぐや姫の神異によって竹取の翁が富み栄えたという致富長者説話、
複数の求婚者へ難題を課していずれも失敗する求婚難題説話、帝の求婚を拒否する帝求婚説話、かぐや姫が
月へ戻るという昇天説話(羽衣説話)、最後に富士山の地名由来を説き明かす地名起源説話など、非常に
多様な要素が含まれているにもかかわらず、高い完成度を有していることから物語、または古代小説の
最初期作品として評価されている。
日本各地に竹取物語由来の地と名乗る地域があり、竹取物語(かぐや姫)をテーマにしたまちづくりを
行っている。
向日市・静岡県富士市 ・奈良県広陵町・岡山県真備町(現倉敷市)・広島県竹原市・
香川県長尾町(現さぬき市)・ 鹿児島県宮之城町(現さつま町)・京都府京田辺市などである。
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本当に「かぐや姫」に遭いそうなすばらしい
竹垣が続いています |
サア~目指す竹林公園までは2分で~す |
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◆◇『竹林公園』(ちくりんこうえん)
京都市が理想のまちとして開発しました洛西ニュータウンは、竹の産地大枝・大原野にあり、竹にかこまれ
たニュータウンとしても知られています。
現在でも、ニュータウンの各所に在来の竹林景観を残していますが、ニュータウンの建設により多数の竹が
伐採されたことから、残る竹林について積極的に保存しようという声が高まり、ニュータウンの記念事業の
一つとして、昭和56年6月に当竹林公園が開園されました。
いうまでもなく、竹は古くから日本人の生活・産業・分化・芸術などに深い関連持っています。
しかし、一般にはあまり知られていない植物の一つでしょう。
そこで、洛西竹林公園では関係機関のご協力を得て、全国各地から多くの竹類を収集して「生態園」に植栽し
てあり、また貴重な資料などを「竹の資料館」に展示し、竹の良さ、素晴らしさ、不思議さなどを広く再確認
していただくために建設されたものです。
◆◇竹の資料館
資料館は鉄筋コンクリート和風仕上げの平屋建で、約450平方m(約140坪)。
展示室には正面にエジソン電球、右側壁面には京銘竹が陳列しあります。
右側中央部のパーティションにはパネルが掛けられ、竹のすべてが理解できるように配置されています。
◆◇生態円
約5,000平方mの生態園は和風庭園をイメージして造園され、緋鯉が泳ぐ池、岩を組み上げた滝をはじめ、
園内には網の目のように遊歩道が敷かれていて、竹林浴が楽しめます。
生態園の遊歩道を散策すると、全国各地から集められた約110種類の竹類を観賞できます。
京都特産のキッコウチク(亀甲竹)が築山に生え、また黄金色に輝く天然記念物のキンメイモウソウ
(金明孟宗)をはじめ、クロチク、キンメイチク、ホテイチク、シボチクなどが彩りを添えています。
斜面には地被としてオカメザサ、ヒメシノ、チゴザサ、クマザサ、カムロザサなどが色とりどりの景観を
かもし、その素晴らしさは他に類を見ないでしょう。
◆◇見本園
生態園の北東部には約500平方mの芝生の広場があり、その中央にはしだれ桜があり、春を告げます。
また、広場の一角には株立ちに育つ熱帯性のホウライチクやホウオウチクなどが大きなクランプ(株)を
作っています。
◆◇百々橋(どどばし)
竹の資料館から生態園の遊歩道に出てまもなく、池の上に「百々橋」(どどばし)が架けられています。
この橋は、かつて京都市百々町と宝鏡院東町との境の寺之内通に架けられていたもので、応仁の乱
(1467-1477)のとき、細川家(東軍)と山名家(西軍)が11年にわたって戦ったその発端となった
橋です。もともと板橋でしたが、後に石橋に改築されたもので、昭和38年に解体され、室町小学校に
保管されていたものをこの洛西竹林公園へ移築されたもので、京都でなくては見られない遺跡の一つです。
◆◇石 仏
生態園の東南角の一段高くなっている台地の小さい広場には数々の石仏が安置されています。
この石仏群は、織田信長が室町幕府最後の将軍、足利義昭のために築いた旧二条城(永禄12年、1569年)
の石垣に使ったといわれる石仏とのことです。
昭和56年に開通した京都市の地下鉄工事の際に発掘されたもので、これらの石仏の中には歴史上貴重な
仏像もあるとのことです。
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資料館で竹の生態、京銘竹、竹製品などのパネル見学。園内の庭園では珍しい竹が鑑賞できた。
出口で集合写真撮影。
すぐ横の子供の広場で昼食・懇親会。
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竹林公園の入口 |
京都ならではの「亀甲竹」誰もが床の間の
飾りに欲しがりそうです |
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「亀甲竹」の説明板 |
竹の資料館 |
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竹の資料館から、仰ぎ見る西山の山々
吉峯山・小塩山が見れる
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子供の広場で昼食懇親会 ー この頃から涼しい風が
吹き始めてくれました |
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直前までの大雨にもかかわらず地面は意外と
乾いていますー気にしないからかな |
幸いなことに、参加総員20名なので、ケンカする
までもなく、ユックリと座れました
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午後は雨の心配はナイカナ |
この食べっぷりあれば、雨も避けてくれるか |
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午後、古墳をイメージした古墳垣の向こうに寺戸大塚古墳を見て、竹の径を離れて
桓武天皇皇后陵へ。
さらに南へ下って、大原野通りを横切って、五塚原古墳を横に見て、前方に洛西の山並み・諸寺を
眺める。
一気に下って団地を通過して、水上勉ゆかりの桜道を登って、京都最古の元稲荷古墳到着。
すぐ横の向日神社に参拝。(WC休憩)
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タケノコ畑に土を削り取られた「寺戸大塚古墳」
民衆の食に貢献できて、墓主も安心か |
京都府の文化財認定の古墳
この付近は、古墳のメッカであったらしい |
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桓武天皇の皇后の高畠陵 |
このような埋葬も、今上天皇の英断で改革されるのか |
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水上勉「桜守」の舞台となった「向日台団地」
桜の季節は連山満開の桜花で覆われます |
小説のモチーフ ー 桜の種の保全と育成、普及は
これからの日本の課題か |
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◆◇『向日神社』(むこうじんじゃ)
向日市に鎮座する神社。向日明神とも。延喜式神名帳に現れる古社であった。
向神社は御歳神(向日神)が向日山にとどまり、稲作を奨励したことに始まるという。
また火雷神社は神武天皇が大和国橿原から山城国へ遷った際、当地に火雷神を祀ったことに始まると伝える。
参道は桜・ツツジ・カエデ等の並木が連なる緩やかな登り坂で情緒があるが、時折自動車も走るので注意が必要。
境内に入ると、舞楽殿が控える。拝殿・本殿はその奥にある。
本殿は応永25年(1418年)建築。室町時代の流造を代表するものとして、国の重要文化財に指定されている。
また明治神宮本殿は、当社本殿を1.5倍のスケールにした設計である。
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すばらしい舞楽殿の前でしばしの休憩 |
拝殿はさすが式内社の風格が漂います |
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室町時代の流造を代表するものとして、国の重要文化財
に指定され明治神宮を彷彿とさせる |
長い参道は桜・ツツジ・カエデ等の並木が連なる
緩やかな登り坂で情緒がある |
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向日神社の長い参道を下って、西国街道を横切る。
少し歩き、南真教寺境内を通過。五辻から来た通りを渡って長岡宮朝堂院跡へ到着(WC休憩)。
ここで、長岡宮跡の全体を勉強します。
少し北へ戻って、いよいよ最後の目的地大極殿跡を見学。
桓武天皇により、平安京へ遷都するまでの10年間「幻の都」と謳われた長岡京の中心であった。
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◆◇『西国街道』(さいごくかいどう)
江戸時代における街道のひとつであり、近世山陽道の別名である。
京都の羅城門(東寺口)から下関までの経路で、律令時代に整備された大路と一致する。
寛永12年(1635年)年参勤交代制の確立のためにも重要な街道であった。
なお呼称には多少の重複混同が生じているが、安土桃山時代頃までは京都~西宮間は山崎街道
(唐街道・山崎通り)、そして西宮~下関間を狭義での西国街道などと呼称する場合が多いようである。
現在、旧街道に並行するように国道171号が京都〜西宮間を結んでいる。
西宮より西の本街道は途切れ途切れにしか残ってない。
このため狭義の西国街道として、京〜西宮までの区間を指すことが多い。
江戸時代には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても
江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたとも言える。
街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、そして武士
や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。
西国街道は、京都東寺口を出発して、九条通りから久世橋で桂川を渡り、向日町、長岡市を経て山崎宿、
(大山崎町・島本町)に達し、以降、芥川宿(高槻市)、郡山宿(茨木市)、瀬川宿(箕面市)、
昆陽宿(伊丹市)を経て西宮宿(西宮市)に至る道筋です(六宿駅)。
西国街道に、郡山宿本陣 (茨木市)が唯一現存している。
時代はさかのぼって、山陽道は都と西の朝廷・太宰府とを結ぶ重要な道路だから、唯一の大路とされた。
大路なんて言うけど人と馬が通れるだけの、道幅は1間程度、2m足らずだったみたいだ。
歴史的には、豊臣秀吉が朝鮮遠征のために、物資や人の大量移動に堪えるように拡幅工事を行ったと
いわれる。その折に、今の向日市の中心街も整備され、以降賑わいを見せたようです。
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◆◇『長岡宮跡』(ながおかぐうあと)
長岡京は、784年11月11日に奈良平城京から遷った都で、794年10月22日平安京に遷るまでの約十年間、
日本の中心地となりました。
そして天皇が政治を司った長岡宮(大極殿や内裏等が立ち並ぶ官庁街)があったのが現在の向日市域です。
781年に即位した桓武天皇は、中国的な政治思想に強い影響を受けていたため、王朝にふさわしい新都を造ろ
うとしたと考えられています。
また、平城京が周辺に大河が無く水上交通が不便で、物資調達に不便だったことや、奈良の仏教勢力が政治
的な影響力を持つ平城京を嫌ったこと等が遷都の理由と考えられています。
僅か半年で大極殿や内裏が完成したのは、水路を用いて難波宮の宮殿を移築したためと考えられ、また建設に
あたっては、丘陵を削って谷や低地を埋め立て、平城京をモデルに設計されたと考えられています。
その後、長岡京の存在については江戸時代から知られていましたが、その明確な場所は特定されていません
でした。しかし、明治二十八年(1895)の平安遷都千百年記念祭で長岡宮跡大極殿遺跡保存の気運が起
こり、公園東側の石碑が有志金によって建立しました。
長岡京跡の発掘調査は、昭和二十九年(1954)十二月末、中山修一よる発掘調査が、朝堂院南門跡から
始められ、翌一月に遺跡の存在が初めて確認されました。
また、以前は長岡京は未完成の宮都と考えられ、どこまで整備されていたか疑問視されていましたが、発掘の
結果、都城としてかなり完成されていたことが判明しています。
国指定史跡に指定され、公園(大極殿公園)として整備されました。
大極殿跡は、東西百三十八尺(四十一.四メートル)、南北七十二尺(二十一.六メートル)あり、南側三ヶ
所、北側二ヶ所に階段を設け、北側中央に小安殿と結ぶ回廊を設けたものであることが確認できました。
基壇の規模は聖武天皇の難波宮大極殿とほぼ同じで、また、難波宮式の瓦が多く出土することから長岡京の
大極殿は難波宮から移築されたものと考えられています。
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朝堂院の跡地で、長岡宮の勉強開始 |
説明専門家の「趙さん」によります説明を聞きます |
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いよいよ大極殿跡跡地に入ります |
天皇の玉座の跡地の「高御座」(たかみくら) |
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復元建物はないが、長岡京・長岡宮を十分に
イメージできるようになりました |
これこそが長岡京の往時の街並み |
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大山崎から京都間のJR・阪急電車の車窓から何げなく眺めていた竹林の丘陵は、
自然と歴史に満ちた地域でした。
近場の楽々コースですので 多数のご参加を予想していましたが、あいにくの天候で
その目的は達成できませんでした。
自然の猛威の前には従順にふれ従う以外に手立てはありません。
おそらく、北摂歩こう会の行事のたびに空をうかがうことは今後も年中行事として
続いていくことでしょう。
冷静に、少し勇気も出して、当日の天候を判断していただければ。
それでも、本日は大雨に遭遇することもなく、むしろ暑さを避けれて快適な歩きが
できましたという「やせガマン」で今回は堪忍しましょう!
それでも20名という人数に達し、北摂歩こう会幹事一同安堵しています。
今回ご参加いただきました20名の皆さん本当にご苦労様でした。
これからも北摂歩こう会幹事一同、皆様に喜んでご参加いただけますように運営して
まいります。(天候と原発には勝てないが)
ぜひ一人でも多くの皆さん、一回でも多くのご参加をお願いいたします。
今後もお互いに元気に、北摂歩こう会でお会いしましょう。
次回、9月例会は「9/21(金): 大阪歴史の散歩道」です。楽々コースです。
また、10月11日(木)には、特別行事「日本三景・天橋立とコウノトリの郷公園を歩く」です。
多くの皆様方のご参加をお待ちしています。 |
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『竹林公園ー竹の資料館』前で記念撮影 |
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20名参加されました。
ありがとうございました。
【写真をクリックすると拡大します。】
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今回の【世話役】 岩室 孝之 田村 勲 冨士永 義文
【写真撮影】 庄子 義明
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