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12回:4月例会 「亀岡七福神と田園地帯を歩く 」
2012年4月12日(木) 参加者 62名
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桜花らんまんの季節に、日本で一番早くめぐれるといわれる丹波七福神めぐりを
楽しみました。
健脚コースでした。 4月12日(木)、62名の皆さんが「山陰線:嵯峨野線 JR亀岡駅」の
北出口広場に集合。前日11日は全日雨天で桜の落花も心配されましたが、当日は朝から絶好の天候となりました。
田村リ-ダ-より本日の行程の説明がありました。冨士永より「七福神」について説明。
田村幹事の掛け声でストレッチを実施。
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「亀岡駅」改札口と 南北自由通路(のどかめロード)」 |
市街地側に向かう南出口地上広場ー広大なスペースあり
2008年4月12日に駅は完成した |
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市街地側に向かう南出口の目の前に「亀山城趾」-
今は宗教法人の本部 |
改札口を出たところに、亀岡の偉人「石田梅岩」の像あり |
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南北自由通路(のどかめロード)」の展望台デッキより北側を望む
左奥に「牛松山」中央に「千歳山」 |
「亀岡駅」の北出口・本日のコースへの連絡側
南側出口より、1年遅れで完成した |
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◆◇『亀岡駅』(かめおかえき)
(JR西日本)山陰本線の駅である。「嵯峨野線」の愛称区間に含まれている。
嵯峨野線とは「丹波口駅 - 園部駅」間の愛称である。
当駅は普通電車の半数ほどが折り返す駅で、特急列車もすべて停車する。当駅から園部方面は快速も各駅に
停車する。
戦中(1943年)の旧駅舎であったが、橋上駅化で、2008年4月12日より新しい橋上駅舎に替わった。
橋上駅舎の完成に伴い、駅北側にも駅前広場が整備された。
南北自由通路には公募により「のどかめロード(「のどか」と「亀岡」の合成造語)」の愛称が付けられて
いる。南北自由通路の北の突き当りのドアを屋外に出たところには展望台(のどかめロード展望デッキ)が
設けられている。
現在駅北口側には 建物がないため、北側の田園風景や保津川の後方の山々を眺めることができる。
改札のすぐ外側には現亀岡市域出身の石田梅岩の座像が置かれている。
亀岡市役所・イオン亀岡店(旧:亀岡サティ)・旧亀山城などの主要施設は、駅南口側にある。
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天候の心配なく明るい笑顔がはじける |
亀岡駅の変化には、ほとんどの人がビックリ |
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満開の桜に会えるといいな~この時点では心配であった |
田村リーダーの掛け声でストレッチをジックリこなした |
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皆さんも冬の運動不足を実感してか、熱心にストレッチ実行 |
◆◇『亀岡市』(かめおかし)
亀岡市は京都府の中西部に位置する市である。
旧名は亀山。亀岡市は旧丹波国の最南端に位置
し、山城国・摂津国の境目となる。
旧丹波国内の中心都市であった。713年には北部
が丹後国として分立した。
丹後・丹後・但馬を三丹とも総称する。
戦国時代末期に明智光秀が丹波亀山城と城下町を
築いたことが近代亀岡の礎となった。
しかし、現在では京都・大阪の衛星都市の側面を
持つようになった。 古代には大堰川(保津川)
左岸の川東に古墳が多く見られ大豪族がいた地域
と見られており、この地区に国分寺が置かれて
いたといわれている。
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日本書紀には、6世紀の初め、皇位継承者の途絶えた朝廷が、天皇の血筋にあった倭彦王を迎えようとした
と記されています。丹波の桑田郡、つまり現在の亀岡にいた倭彦王は、迎えの兵に驚いて逃亡したため、
その後、朝廷は、越前から継体天皇を迎えたとされています。
継体天皇元年に初めて神殿が建立された愛宕神社や出雲大神宮、、、、など歴史的に古く、多くの由緒ある
重要な寺社も多い。亀岡地域の伝統を物語るものだろう。山城との境の坂峠・王子宿には多くの宿場が立ち並んだ。
明治2年、三重県亀山市(現在)と混同するので、亀山藩から亀岡藩へと改称される。
明治4年、廃藩置県で亀岡県。同年に京都府所属となる。1899年、京都鉄道が園部まで開通、この時に亀岡駅
ができた。
丹波松茸、丹波黒豆、馬路大納言小豆、丹波栗、みず菜、千枚漬に重宝される篠大根(かぶら)や、丹波山の
芋等の京野菜や、亀岡牛、丹波地鶏、鮎、猪などが名高い。特に、古くから丹波松茸は名高い。
日本で唯一、ハバネロ(トウガラシの一種)の商業水準の生産で、名産品として認知されつつある。
馬路大納言小豆は、高級品の丹波大納言小豆の中でも最高級品であり、馬路町でしか生産できない。 |
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JR亀岡北口を出発し、保津川下りの乗船場をめざす。右前方(北東)「牛松山」が見える。菜の花畑がのぞめ、まさに丹波田園地帯を歩く感じです。保津川下りの乗船場を左に見て、保津川橋を渡りいよいよ
七福神巡りへの入口です。
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「亀岡駅」の北出口を出発-保津川をめざす |
「保津川下り」:JR嵯峨野線より保津下りを望む |
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「保津橋」を渡るー以前のものに比べると隔世の立派さである
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◆◇『保津川下り』 (ほづがわくだり)
保津橋の西詰めが有名な保津川下りの乗船場。
嵐山渡月橋まで16Kmの川下り。
丹波は良材の産地で皇都の造営・城郭の構築など
大土木工事には丹波の材木を筏に組んで流した。
平安京造営、天竜寺、伏見城などに使用された。
しかし、保津川の流れは急で川底の浅い所も多か
ったため、舟運には適さない川であった。
17世紀にはいると嵐山の豪商であり政商の角倉
了以が桂川を開削し、現在の丹波町から下流の
淀や大坂ま通じることになったため、船運が発達
した。園部、保津、山本、嵐山、梅津、桂津など
は湊町として栄えた。
しかし、1899(明治32)年に鉄道が開通すると、
舟運が衰微し行楽化した。
遠目から見れば穏やかな川も、いざ小船で下ると
なると急流に見えると言う。 |
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◆◇『保津川』(ほづがわ) (桂川・保津川・大堰川・大井川)
桂川・保津川・大堰川・大井川などと呼称される。京都府を流れる淀川水系の一級水系。
京都市左京区広河原と南丹市美山町佐々里の境に位置する佐々里峠に源を発する。
左京区広河原、花脊を南流するが、花脊南部で流れを西へと大きく変える。
京都市右京区京北を東西に横断し、南丹市日吉町の世木ダム、日吉ダムを経由する。
以降は亀岡盆地へと南流する。亀岡市の中央部を縦断し、保津峡を南東に流れ、嵐山で京都盆地に出て
南流、伏見区で鴨川を合流、大阪府との境で木津川、宇治川と合流し淀川となる。
京都盆地流入以南の桂川は、古くは葛野川(かどの)と呼ばれていた。
古代、嵐山周辺の桂川の流れは現代とはやや異なるものだったと考えられている。
そのこともあり洪水に苦しめられたようだ。
嵯峨や松尾などの桂川流域を支配していた秦氏が、6世紀頃に桂川に堰堤を築いたとされる(葛野大堰)。
とくに下嵯峨から松尾にかけて桂川東岸に築かれた堤は罧原堤(ふしはら)と呼ばれる。
「秦氏本系帳」によると、これら堰堤完成の際に、それまでの葛野川から大堰川と呼ばれるようになった
とある。
表記通例として、京都市右京区京北の流域にかけては上桂川(かみかつらがわ)、南丹市園部町に入ると
桂川、南丹市八木町から亀岡市にかけては大堰川(おおいがわ)、亀岡市保津町から京都市嵐山までは
保津川(ほづがわ)などと名を変え、嵐山から最終合流地点までは再び桂川と称される。
これらは通例であり、1896年(明治29年)以降、行政上の表記は桂川に統一されている。
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JR亀岡北口を出て保津川橋を渡り、その先の信号を右折し、保津小、郵便局の前を道なりに進む。
毘沙門バス停を過ぎて右側に「神応寺」の看板が見える。「養仙寺」へは案内看板に沿ってすぐ。
養仙寺横の山の方へ坂をのぼると「和らぎの道」に出る。目の前が「愛宕神社」。
コースは左方向へ和らぎの道を進むと、T字路を右に、駐車場の先を左に入ると再び和らぎの道に。
七谷川沿いの野外センター到着(WC昼食)。
七谷川沿いの満開の桜の下での昼食・懇親会で、桜の季節を満喫できました。 |
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亀山「七福神巡り」に出発 - 亀山古道を延々と歩きます |
「丹波七福神第一番」:毘沙門天さん右手に宝棒、
また左手に宝塔を持つ |
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「神応寺」境内の 約330体の石仏をお祭りした石仏庭園 |
数多くの石仏をお祭りした石仏庭園 |
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「丹波七福神第二番」: |