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第109回:12月例会 「疎水から哲学の道を歩く 」
2011年12月8日(木) 参加者 44名
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12月8日(木)、44名の皆さんが「京阪電車(叡山電鉄) 出町柳駅」の駅前広場に集合。
天気予報では1週間前までは、一時雨。ここ2日前からは晴れ間ありとのことで期待して
いましたが、本日朝から雨降りということで、今年度は最後まで天候に追いまくられた年
でした。
それでも44名の皆さんが今年度最終回ということで張り切って集まられました。
10時に雨降る中を出発。今出川通りを東へ。東大路通りと交錯する百万遍交差点の
東すぐの北側の「知恩寺」に到着。ここで本日の開会。
河井リ-ダ-より本日の行程の説明がありました。
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「京阪電車(叡山電鉄) 出町柳駅」交通の要地でにぎわう |
本日の天候は一日雨降りかな~ |
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出町柳駅前の寺院というと「光福寺」、朝のあいさつに訪問 |
◆◇『京阪電車』
京阪電鉄は1906(明治39)年創業、1910年
大阪天満橋 ― 京都五条間開通、1915(大正4)年
三条まで延長。
1925年京津電車と合併して同社京津線となり、
1989(平成元年)年京福電鉄出町柳までのびた。
七条―出町柳間は地下鉄である。
現在は大阪は淀屋橋また、最近中之島まで開通。
また大阪―京都間の交通機関はすべてが東西に
走っているが、鶴見緑博の年にモノレールが
運行開始して、関西空港―大阪空港
を繋ぎ、門真で京阪電車と合流している。
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雨の中を勇んで出発の面々 |
「今出川通り」と「東大路通り」の交差点、これより左右に京都大学のキャンパスが広がる |
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「今出川通り]を雨を蹴立てて走る車ー雨足激し |
「知恩寺南門」 |
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河井リーダーより本日のコース説明 |
雨の中でも皆さん笑顔であいさつ~サスガデスナ~ |
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◆◇『知恩寺』
浄土宗四ヵ本山の一つである。
本尊は釈迦如来。円仁の創建と伝え、もと賀茂社の
神宮寺であったと言われている。
法然は賀茂社を尊敬し、ここを念仏道場とし、弟子
の源智を住持とした。
源智は法然に奉ずる志で功徳院知恩寺と改めた。
1331年洛中に疫病が流行した時、8世善阿円空が勅命
により念仏修法を行い、百万遍念仏を唱えたところ
疫病がやんだので、後醍醐天皇は「百万遍」の号を
下賜した。南門から入った正面の御影堂には、法然の
木像が安置されている。
境内墓地に法然上人廟、関ヶ原の戦いの際、伏見城を
死守して戦死した鳥居元忠、秀吉の軍師竹中半兵衛ら
の墓がある。 |
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河井リーダーの懇切な説明があり、世界遺産の銀閣寺(慈照寺)方面へ前進します。
後二条天皇陵を過ぎると琵琶湖疏水分流に出会います。
この疏水沿いに哲学の道が始まり、それに並行して進み銀閣寺橋に。
雨の中、銀閣寺門前と哲学の道の分岐点で小休止し、哲学の道に歩みを進めます。 |
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「後二条天皇陵」を過ぎる |
「松琵琶湖疎水分流」と出会う |
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右手に「吉田山」がのぞめる |
◆◇『吉田山・吉田神社』(よしだやま・じんじゃ)
京都大学の東に吉田山がある。神のよります
神楽岡(標高120m)とも呼ばれる。平安初期には遊猟と
知られる。足利尊氏がここによって官軍と戦うなど
戦場ともなり、江戸時代は遊楽地となった。
丘上には旧三高寮歌の「紅萌ゆる丘の花」の歌碑がある。
吉田山の西麓の「吉田神社」は、859年に奈良の春日
神を勧請したのが起源という。
2月3日の節分は有名で、前日の2日に大元宮で
疫神祀る疫神祭、次いで夜9時から本宮前舞殿で
古式にのっとり、追雛式が行われる。
黄金四つ目の仮面をかぶり、振子と呼ばれる8人の
児童を従え、桃の弓で葦の矢を放ち、悪鬼を追う。
ついで豆まきが行われる。
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今出川通り~北白川女を想いおこさせる「白川通り」を渡る |
「銀閣寺門前」にある「哲学の道」の開始点 |
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◆◇『銀閣寺(慈照寺)』(ぎんかくじ・じしょうじ)
臨済宗相国寺派で、室町後期の東山文化の象徴であ
る。銀閣寺を造営した「足利義政」は8才で将軍とな
り、初めは政務に励んだが、のちに部下の対立・
妻日野富子が政治に口をはさみ、政局は乱脈を極め
た。後継者争いから応仁の乱が起こり、そのさなか
に将軍職を9歳の義尚に譲ってしまった。
義政は文化面に優れた感覚を持ち、祖父義満の金閣
に劣らぬ建築を志し、庭園・殿社を造った。
殿社は東山殿と呼ばれ争乱をよそに風流三昧の生活
を送った。
その没後、遺命により寺として義政の法号から慈照寺
と名づけられた。なお銀箔をはった確証はなく、
黒漆塗りで、銀閣の名称は江戸時代に起こった。
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茅葺の山門、季節を彫り込んだ盛砂と苔が美しい庭園の法然院から、
ネズミ、サル、トビと一風変わった狛犬がある大豊神社へ。
ここの境内で昼食・懇親会。雨を避けることができ、
今回のリーダーの皆さんの事前の心配りに感謝いたします。
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ヒノキと杉の参道を経て、茅葺きの数寄屋風の門構え |
◆◇『法然院』(ほうねんいん)
浄土宗捨世派本山。
この地は法然・住蓮坊・安楽坊の念仏道場の旧跡と
され、江戸時代になって法然院と称した。
ヒノキと杉木立の参道を経て山門にかわる
茅葺きの数寄屋風のに出ると白沙段があり、
池にかかる橋を渡ると方丈玄関である。
墓地には谷崎純一郎や学者の墓が多い。
代表は西田幾多郎が訳したゲーテの詩を刻む
河上肇の墓である。
数多く所蔵されている襖(ふすま)絵は桃山時代の
国重文である。 |
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盛砂の「白沙段」 |
苔むした庭も整備され、池を渡ると方丈玄関である |
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内部から見る茅葺き・数寄屋風の門 |
祭神・少彦名命・応神天皇・菅原道真の「大豊神社のお旅所」 |
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舞殿を借り切っての昼食の場 |
祭神・菅原道真と勤勉なネズミの組み合わせで学問精進を |
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観堂の守護神として後白河法皇が開いたと伝わる熊野若王子神社を巡り、振り返った仏とモミジの永観堂(禅林寺)前を通り少し行くと大寂門で、ここから南禅寺境内に入ります。
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若王子(にゃくおうじ)は天照大神の別称・若一王から |
中世には武士の信仰が厚く、また花の名所としても有名で「足利義政」が花見の宴を数多く催した |
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雨の中「哲学の道を進むーこの時期が雨量最も多し |
人は人吾はわれなり とにかくに 吾行く道を吾は行くなり |
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◆◇『哲学の道』(てつがくのみち)
熊野若王子神社から銀閣寺までの1.6kmほどが,
1970(昭和45)年~71年に「哲学の道」として整備された。
蹴上からは北に向かう疏水分線が分岐している。南禅寺の境内を水路閣でまたぎ、法然院・銀閣寺西方を通り北進。若王子神社から慈照寺(銀閣寺)付近までの疏水分線の堤は哲学の道として昭和後期に整備されている。
西田幾多郎ら哲学者が思索しながら散策した
Denken Straase(考える道)からきている。
法然院の下の疎水べりに西田博士の歌碑
「人は人吾はわれなり とにかくに
吾行く道を吾は行くなり」。 |
◆◇『禅林寺(永観堂)』ぜんりんじ・えいかんどう)
浄土宗西山禅林寺派総本山。
洛中屈指の紅葉の名所永観堂で知られる。
その起源は藤原時代前期の分雅の人藤原関雄が、
空海の弟子真紹僧都に別荘を寄進したことによる。
真紹は
「仏法は人によって生かされる、自分は人の鏡となり
薬となる人を育てたい」と述べている。
中興の祖永観律師は、本尊を阿弥陀如来とし、施薬院を
建てて貧者の救済に努め、寺は永観堂と呼ばれた。
この阿弥陀如来は、永観が行道中にあらわれて奇瑞を
示したというのを木像としたもので、「見返り阿弥陀」と
いわれる。
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散り始めの永観堂の紅葉 |
今年の紅葉の遅さがうかがわれる、音に聞く永観堂の
紅葉でした |
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野村証券の創始者が作った春秋に開館する美術品の宝 |
広大な南禅寺の北西側の門 |
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天正年間建設の旧御所の建物を下賜されたと
いわれる「方丈」 |
御所にふさわしい華麗な建物がひしめいている |
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ご存じ三門、知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている |
亀山天皇が開山と指名した
「東福寺3世・無関普門」の法号ー
大明国師 |
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◆◇『南禅寺』(なんぜんじ)
臨済宗南禅寺派大本山。
亀山天皇がここを離宮とした。開山は東福寺3世無関普門(大明国師)で、その後離宮を改めて禅林禅寺とした。
五山の第一として最高の禅寺とされた。
その後、火災に何回かあい、さらに応仁の乱で全焼し、衰退した。豊臣秀吉、次いで家康のの信任を得て再興した。
中門に出ると右手に金地院、左手に勅使門、三門がある。
三門は天下竜門、楼は五鳳楼といい、藤堂高虎が大阪の陣の戦死者を弔うため建造。楼閣上に釈迦・十六羅漢・家康・高虎などの木像を安置する。石川五右衛門の死後30年の建造で、
右衛門が楼上で「絶景かな」と称賛したというのは俗説である。
折しも、南座吉例顔見世興行での『楼門五三桐』(さんもん ごさんのきり)の歌舞伎上演がされています。 |
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三門から仏殿を左に見て右折すると南禅院があり、寺近くの水道橋(水路閣)は琵琶湖疎水の分流の一部で、
1888(明治21)年田辺朔郎の設計。半円アーチ式レンガ造である。
国指定文化財が数限りなく所蔵されていることでも有名。 |
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歌舞伎で石川五右衛門が「絶景かな~」と見得を切るので有名な三門、一風変わったレンガ造りの水路閣があり、その水路閣に流れ込む疏水沿いに進んでゆくと蹴上(けあげ)インクラインに出ます。勾配のある2地点間で舟を台車に載せて運ぶために造られた傾斜鉄道が、インクラインです。 このインクライン跡を琵琶湖疏水記念館まで歩きます。 |
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「蹴上発電所」への取水配管 |
主任技術者として、大学を卒業したばかりの田邉朔郎がじ設計監督にあたって琵琶湖疏水の成功をもたらした |
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復元された「インクラインの台車とレール」 |
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疎水100年記念の1989年に完成した「琵琶湖疏水記念館」 |
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大覚寺の堂宇では小規模の「御影堂」大きさがうかがえる |
京都市三大事業の記念碑 |
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琵琶湖疎水記念館資料より
◆◇『琵琶湖疎水』 (びわこそすい)
琵琶湖疏水とは、琵琶湖の湖水を、京都市へ通ずるために作られた水路(疎水)である。
禁門の変で市中の大半が焼け、明治維新と東京遷都に伴い京都市は人口が減少し産業も衰退したため、第3代府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画。主任技術者として、大学を卒業したばかりの田辺朔郎を任じ設計監督にあたらせた。
第1疏水は1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線が完成した。また、水力は当初の計画には存在しなかったが、田邉らがアメリカで視察したアイデアを取り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所を建設し、1891年(明治24年)に運転が開始された。この電力を用いて、1895年(明治28年)には京都・伏見間で日本初となる電気鉄道である京都電気鉄王(京電)の運転が始まった。鴨川合流点から伏見堀詰の濠川までの鴨川運河は、1892年(明治25年)に着工し、1894年(明治27年)に完成した。その後、第1疏水でまかないきれない電力需要に対応し、新設する近代上水道のための水源として、第2疏水が、京都市の「事業三大」の一つとして、1908年(明治41年)に着工され1912年(明治45年)に完成。
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◆◇『インクライン』
南禅寺橋の下にインクライン(傾斜鉄道)が再現され
た。1890(明治23)年開通の琵琶湖疎水は鴨川と35m
の標高差があり、蹴上から南禅寺舟だまりまで
インクラインを設け、台車に舟尾をのせ、初め馬が
引いたが、蹴上発電所の完成でモーターに切り替え、
1948(昭和23)年まで使用、のち電気設備やレールを
撤去したが、有志の運動で1979年レールに舟をのせた
台車を復元した。近くの広場に疎水の設計・施工責
任者田辺朔郎の銅像がある。
落差の大きい蹴上にはケーブルカーと同じ原理で
設置され、船を線路上の台車に載せて移動させた。
水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止され
たが、蹴上では一部の設備が静態保存されている。
現在でも無隣庵や平安神宮神苑、円山公園をはじめ
とする東山の庭園に、また京都御所や東本願寺の
防火用水としても利用されている。一部の区間は
国の史跡に指定されている。
また、疎水百選の一つである。
蹴上からは北に向かう疏水分線が分岐している。
南禅寺の境内を水路閣でまたぎ、法然院・銀閣寺
西方を通り北進。若王子神社から慈照寺(銀閣寺)
付近までの疏水分線の堤は哲学の道として昭和
後期に整備されている。
疎水100周年記念の1989(平成元年)年、南禅寺
橋の北に琵琶湖疎水記念館が完成して資料を
展示している。
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今回は京都左京区の有名な寺社と琵琶湖疎水という歴史遺産をまわりました。
終始雨の中かなりの歩行距離でしたが、濡れ祖ぼることもなく完歩できました。
雨に散る紅葉の風情も雨ならではの趣でした。
今、日本をあげて原発でない発電が叫ばれています。今回の琵琶湖疎水の目的・歴史はこの解決策を
与えてくれるのではないかと「琵琶湖疎水記念館」の資料を見て驚かされました。
まさに京都市復興に賭けた先覚者の意気込み、挑戦に頭の下がる思いです。
日本復興の基本があるように思います。
リーダーの皆さんご苦労様でした。
ご参加いただきました44名の皆さん本当にごくろう様でした。
また今年一年北摂歩こう会へのご協力本当にありがとうございました。
次回、来年度1月例会は「1/5(木) 神戸三大神社初詣ウォーク」です。
総会も開催されます。
多くの皆様方のご参加をお待ちしています。 |
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『大覚寺』大玄関を背景に記念撮影 |
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高槻
25名参加されました。
ありがとうございました。
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茨木摂津・他
19名参加されました。
ありがとうございました。
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今回の【世話役】 河井 進 辰巳 寛康 平 英一
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