◇
第105回:7月例会 「堺・百舌鳥古墳群を巡る 」
2011年7月14日(木) 参加者63名 |
|
7月14日(木) 10時「JR堺市駅」前に63名が集合。久し振りにご参加の方もあり。
嬉しいことに、新会員や新家族会員も出てこられた。
「方違(ほうちがい)神社」にて秋山さんによるストレッチ体操を全員で実施する。
|
|
久しぶりにJR阪和線に乗って「堺市駅」に
|
長尾街道沿いにの「方違神社」に到着 : 地名−三国ケ丘町 |
|
秋山リ−ダ−の掛け声で、未だ涼しい間にストレッチを実施 |
◆◇『方違神社』 (ほうちがいじんじゃ)
古来、陰陽道では旅をする時にその方角が良くない場合、
一度別の方向に移動してから、本来の場所へ向かう風習があった。
いわゆる「方違え(かたたがえ)」であるが、この神社は方祟りの災厄が
除かれるということで、現在でも、新築・転宅・旅行のおりなどに参拝
する人が多いそうです。
この神社の建つ場所が、律令制下の【摂津・河内・和泉】3国の
境界が接する地点であることから、東西南北の方位を消し去り、
方位による災いのない、清浄な地であるとの信仰が生まれ、
方違神社がまつられたと考えられている。
現在、祈願の目的の有無は別にして、方違神社という名称の神社は、
日本でここだけと言われている。 |
|
クイズの合間に見える「伊吹山」も雨のため、はるか遠くに |
◆◇『反正陵古墳』
この古墳は百舌鳥古墳群の最北端に位置し、
全長148m・後円部の径76m・前方部の幅110m
ほかの天皇陵と同様に宮内庁の管理下にあり、立ち入りは
一切禁じられている。
仁徳天皇・皇后(磐之媛命)の子供たちは、
履中天皇(17代) ・ 反正天皇(18代) ・ 允恭天皇(19代)
と 次々即位した。
|
|
神社・古墳の次に目に入った「古いモダンな建物は何だ?」 |
◆◇『旧天王貯水池』
反正陵古墳からけやき通りに向かう道筋の左側に、小高い人工の丘に
凱旋門風のデザインの建造物が南面して立っているのが目に入る。
明治43年に建設され、昭和37年まで半世紀にわたって上水道配水池
の役割をはたしてきた「旧天王配水池」(国登録)である。
堺近辺において、良質の粘土が採取されていたため、瓦の製造が
盛んであり、この技術を使って最新の建材であるレンガを作り始めた。
そして水道施設の先進地であるヨーロッパで採用されていた建築を
参考にしたことなど、特筆されることが多い。
貯水槽の周りに全体に土を盛り上げることで外気を遮断し、
最近の繁殖を防止するなど、水質の安全を
図った跡がみられるとのこと。
ここにも鉄砲・刃物、、、など技術先進堺がかいまみられる。 |
|
けやき通りを進み、大山陵へ。このころより暑さが厳しくなってきたナ〜 |
「榎歩道橋」は仁徳古墳の後円部(先端のみ)が望めるビュ−スポット |
|
古代の大和王権の象徴ともいえる百舌鳥(もず)古墳群を巡る。
反正(はんぜい)陵古墳を経て、目玉の仁徳天皇陵へ。
仁徳天皇陵は、わが国最大の前方後円墳だ。クフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵と並び、世界3大墳墓と称せられている。
仁徳天皇は、記紀(古事記・日本書紀)に出てくる5世紀前半の天皇で、難波に都した最初の天皇として有名。民のために租税を3年間免除したなどの聖帝伝承があり、敬愛の念が沸いてくる。倭の5王のうち「讃」または「珍」との説もある。
道中、仁徳天皇の第一皇后の磐之媛命(いわきのひめ)の万葉歌碑に出くわす。
「君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」
「かくばかり恋ひつつあらずは高山の岩根しまきて死なましものを」
一昨年、紅白歌合戦で小林幸子がこの万葉歌を熱唱したのを思い出す。 |
|
初霜坂の登り口、支援学校校門前の、立派な「大山陵案内板」
ユネスコの世界遺産暫定リスト入りを果たした直後に設置された。 |
◆◇『百舌鳥・古市古墳群−
ユネスコの世界遺産暫定リスト入り』
ここ「百舌鳥古墳群」と、8Km東にある「古市古墳群」は昨年、地元での努力が実り、ユネスコの世界遺産暫定リスト入りを果たしました。 しかし、正式に世界遺産に登録されるには、現在日本で12件ある暫定リストの中から国内の競争を突破したあと、世界の候補に勝ち抜いていかなくてはなりません。 登録までには早くても5年かかる計算のこととです。
それまでに、古墳周辺の景観保全など登録のための条件を整えたり、ガイダンス施設など来訪者のための整備を検討していかねばなりません。
近隣の京都、奈良、兵庫、和歌山などには世界遺産がありますが、大阪にはまだありません。
関西国際空港がある大阪にとって、百舌鳥・古市古墳群は世界にPRできる貴重な歴史遺産です。
世界遺産に登録されれば、国内はもちろん、海外からも大阪・関西の観光として広く認識されることになり、多くの訪問客hが期待できるようになるのでしょう。 |
|
一周すると約3,000mの石畳 |
磐之媛命は淑女か?嫉妬鬼?とみるか議論はつきない |
|
仁徳天皇陵を半周したが、ただその大きさに驚くばかり!! |
◆◇『仁徳天皇陵』
全長 486m・後円部の径 245m 高さ 35m・前方部の幅 305m
三重の濠がめぐされている。日本最大であり、墳墓として世界一である。
応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の(宇治神社:)
うじのわきいらつこ皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の死即位した
という。
人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風謚号もこれに由来する。
ただ一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い
一面も描かれている。
皇后(前):磐之媛命(いわのひめのみこと)
皇后(後):八田(やたのひめみこ)
|
|
今となっては、仁徳天皇・磐之媛命とも、毎日顔を合わせておられる
のではないでしょうか。 |
◆◇『磐之媛命』万葉歌碑(いわのひめのみこと)
磐之媛は葛城地方の大豪族の娘で仁徳天皇に愛されたが、 当時の天皇や位の高い貴族たちは何人も妻をもつのが普通のことだったので、姫の嫉妬心だけが有名になってしまった。
万葉集には恋歌も採られている優れた歌人でもあった。
ありつつも 君をば待たむ 打ち摩く わが黒髪に、霜の置くまでに
やっぱり迎えに行かないで、おいでになるまで待っていよう。私のこの黒髪に夜の霜が置くまで、表に出て待っていようというのだろうか。白髪になるまででも待とうと言うのだろうか。
これ程、純粋に一途に恋いこがれながら、皇后は再び仁徳天皇と睦まじく生活することなく、寓居で亡くなられ、平城宮跡の東北にある水上池の北側の御陵で眠っておられる。
さすがに気がとがめられた天皇が指示されたのか、二重に濠をめぐらせた前方後円型の大きな陵で、季節ごとの花木に囲まれている。。
御陵は今も、堺市にある仁徳天皇陵の方を向いて、天皇が来られるのを待っておられるのだろう。
自分の気持に素直で皇后、現代だったら聡明で快活な方として、幸福な一生を送られたであろうのにと思うとお気の毒だ。
|
|
自由都市・堺の栄華をとどめる大仙公園の木陰で昼食。ベンチで古稀の堺市民との歓談を楽しむ。
21年前にできたという日本庭園に入り、広大な園内をひと巡りする。250匹の鯉もいれば鴨もいる。
イチョウ以外の全ての樹木が生息しているという。庭石も清流も見事なものだ。 |
|
平和塔から大山古墳をながめられると思ったは、いつの日だったか?? |
◆◇『大仙公園』
仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)に隣接する大仙公園は、33万uの緑と歴史に包まれた堺市のシンボルパークです。
北入口のイチョウ並木正面にそびえる平和塔と、江戸時代のため池を改修して造られた「どら池」を中心に、芝生広場や児童の森など自然と触れ合える空間が広がり、花壇を彩る花や鳥のさえずりなどが季節を感じさせてくれます。
資源を活かした優れた景観・環境や、公園として一体性のある大きな魅力などが評価され「日本の歴史公園100選」に選定されています。
暑い中、昼食時は公園の木陰で、吹き抜ける涼風に誘われて、
懇談の場が盛り上がりました。
|
|
見れば見るほど、万博日本庭園かと見間違えてしまう! |
今年最初の朝顔を鑑賞 |
|
日本庭園の休憩所で鯉をながめながら、岩室節を楽しみました。 |
◆◇『日本庭園』
堺は古来より大陸文化の上陸地のひとつとして大陸と日本を結ぶ重要な位置を占め、中世には遣明船の基地として大陸から渡来した先進技術や文化を日本文化へ昇華させることに貴重な役割を持つと同時に当時自由都市として栄えました。
この日本庭園は市制100周年を記念で造られ、これらの歴史を背景にして作庭されました。庭園様式は『築山林泉回遊式』を用いています。
対岸には遥か中国大陸を望む名勝を模して造られており、桃源台に発する水流は、 諸処に景勝を織り交ぜながらやがて大海にそそぐ景観を伝統的技術を駆使して、26.000平方メートルの中に盛り込んでいます。
ということですが、4月の万博公園の日本庭園とのそっくりが分かった。
とにかく65才以上は無料とのことで、ありがたかった。
|
|
履中天皇の都は磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや、桜井市池之内に稚桜神社がある)。
|
履中天皇陵は 全長365m 日本で3番目の大きさです。 |
|
◆◇『前方後円墳』〜 史跡 「今城塚古代歴史館」資料より
日本における古墳の一形式で3世紀から7世紀頃にかけて盛んに造成された。
「前方後円」とは前部が方形(四角形)、後部が円形という形を意味している。
この語句は江戸時代の国学者蒲生君平が初めで使ったと言われている。
日本独特の特徴であり、出現期より規模の巨大さを特徴としている。
全長200mを超す大型古墳の前方後円が、3世紀中ごろに突如、奈良盆地に出現する。
邪馬台国の所在地論争が再燃するきっかけになった「纏向(まきむく)遺跡」の中の「箸墓古墳」は女王卑弥呼の可能性が指摘されている。
卑弥呼の死が契機となって生み出されたものが巨大な前方後円墳であり、ヤマト政権そのものだという説がある。
4世紀になると、河内地方にも登場する。百舌鳥古墳群の誕生だ。大阪平野の勢力が王権を掌握したとの説もあるようだ。一定の形ができると事物は巨大化する。大は善なり、という思想だろうか。
権力の象徴だった前方後円墳は、7世紀に入ると姿を消し、円墳・方墳・八角墳へと小規模化していく。首長連合体制から中央集権的な国家形成に向いたからだという説がある。
北摂歩こう会では、大和・柳本/佐紀/百舌鳥 各古墳群を歩きました。 |
|
百舌鳥八幡宮境内の「樹齢800年の大楠」 |
ここは、8月15日ごろの月見祭で、勇壮な「ふとん太鼓」が繰り出す |
|
御廟山古墳周遊路を歩く。 今城塚古墳の雰囲気とよく似ています。 |
帰りは御廟山古墳の周遊路を歩き、JR阪和線の百舌鳥駅に向かう。
ここで反省:
履中陵の拝所から、いたすけ古墳・御廟山古墳を経由して、百舌鳥八幡宮への道は入り組んでいて分かりにくい。 過去も途中で何回か迷った。
(宮内庁の管轄を外れるとこんな問題?もあるのかな〜)
この辺りは土壁や白壁の古い家並みが多く残り、その間を縫うように細い路地が走っている。 迷路です。
今回も違わずに迷子グループが発生しました。
(方違神社に参拝したため??)
本来であれば、昔の雰囲気を味わいながら、ユックリと少し寄り道をするのもいいかもしれません。
ただし、行き先が
「百舌鳥八幡宮」ではなく、「百舌鳥駅」というのが悔やまれる!
自分の名前と、行き先はおぼえておきましょうネ〜 |
|
履中陵、いたすけ、御廟山の各古墳を巡る途中、数匹のタヌキが出現し、しばらく全員の目をくぎ付けにする。一服の清涼剤。
百舌鳥八幡宮を経て、14時45分JR百舌鳥駅に到着し、解散。
各自日避け対策を怠りなく、全員が約10kmを和やかに歩き抜く。
要所要所で冨士永さんの解説が冴える。
炎天下にもかかわらず、勇気を出して参加し、
仲間と共に楽しく歩き通された62名の方々の健康長寿を祈って、乾杯!
3組に分かれて、記念写真を撮影。 【写真をクリックすると拡大します。】
|
|
『大山古墳(仁徳天皇陵)』の拝所前を背景に記念撮影 |
|
高槻 あ〜そ
20名参加されました。
何年ぶりかに参加いただき、お元気に完歩!良かった。
【写真をクリックすると拡大します。】
|
|
高槻 た〜
18名参加されました。
【写真をクリックすると拡大します。】 |
|
茨木摂津・他
25名参加されました。
【写真をクリックすると拡大します。】
|
|
|
|
|
|
【世話役】 秋山充久 平英一 岩室孝之
【 文 】 辰巳寛康
【写 真】 仲尾富三
【構 成】 冨士永義文
|