陶芸館駐車場組は11名、車3台で国道33号線、国道440号線、国道197号線を走り、合流時刻の10時に
高知県梼原町太郎川の雲の上ホテル駐車場に到着しました。
大洲からの車は先に到着しており、そこでミーティングの後、国道197号線より100m高い所に整備された遊歩道を梼原町の中心部に向けてウォークがスタートしました。
標高の高い梼原町、いたるところに、いろいろな色の紫陽花が咲いているのが印象的でした。
今回ウォークの舞台は、幕末の風雲急を告げた1862年(文久2年)春、坂本龍馬が梼原から那須俊平、信吾親子の案内で朋友澤村惣之丞とともに脱藩したとされる梼原でした。
梼原は、天誅組を組織した吉村虎二郎、天誅組に加わった前田繁馬、長州忠勇隊に入隊した中平龍之介と彼らの脱藩を支えた神職の家に養子として入っていた掛橋和泉という人物を輩出した土地でもありました。
これらの人物(勤皇の志士と呼ばれます)が脱藩して土佐国を去った梼原の地を巡ってみるというテーマがありました。
梼原出身のこれら勤皇の志士は、全員戦死または自決、あるいは惨死したのでありますが、明治政府は彼らの功績を讃え正四位、あるいは正五位という勲位をもって応えており、梼原教育委員会は彼らのゆかりの地の案内板で勲位を紹介し、勤皇郷をアピールしているのが印象的でした。
なぜ梼原という小さな村にこれだけの勤皇の志士が誕生したのか、パンフレットと、人物の案内板を見て歩くだけでは答えの全部は見つかりませんでした。
土曜日とあって、役場や商工会議所は休み、勤皇郷梼原が、時代がかわっても、行政・経済面で全国的にも光り輝く自治体として有名なのは何故かという取り組みを知る情報収集も無理でしたが、基幹産業の林業、木材を使った町舎、橋梁、市街地の整備、張り巡らされた光ケーブル、「ちょっと違う町」を感じました。
三島神社に架けられた木材の御幸橋から梼原川の清流でアユの友釣をする人を眺めながら弁当を食べていると、戦後間もない昭和30年代の夏を思い出しました。
食事が終わると、車を停めた雲の上ホテルを目指して3.5kmを歩いてゴールとなりました。
全員が揃ったところで、大野世話人から、次回68回のウォークは予定通り、久万高原町から遍路道を砥部へ下りる山道を歩きたいという挨拶があり、解散しました。
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