愛媛の皆様へ 愛媛の皆様へ 歩こう会
愛媛の皆様へ 愛媛の皆様へ
Last updated : 14/11/2010

第39回 愛媛地区 歩こう会のご報告

第39回 歩こう会の宇和島市『伊達家ゆかりの史跡探訪』が予定通り実施されました。
秋も深まりイロハカエデやプラタナスを大分色づきましたが、黄砂に襲われ、日差しは初冬の雰囲気でしたが
気温は少々高めのウォークでした。

日   時 : 平成22年11月13日(土)
 集合:解散 伊予市 ウェルピア伊予駐車場    8:45 〜 16:30
         宇和島市観光情報センター     10:15〜 15:30
         
参加人員 : 総勢 11名
天   候 : 午前・午後を通じ曇り 微風、この季節にしては、気温はやや高めでした。
徒歩距離 : 約 10km
内   容 :
前回の中島ウォークの中止分を取り返すような、意欲的なウォーでした。

伊達10万石の城下町、市の中心部のガイドブックを見るかぎり整然と区画整理がされているようですが、道路は東西方向、南北方向、あるいは斜め方向に走っており、黄砂で視界不良とあって、無茶苦茶な街並みを歩いた印象もありました。

三方を山、ほとんどお寺と墓地に囲まれ、真ん中に城山があり、伊達家ゆかりの宇和島市は探訪する場所も多く、世話人の周到な準備をしても、手ごわいウォークでありました。

世話人は、宇和島市は菊池会員だけでは心細いと思ったのか、あるいは、菊池会員一人では、快速組と鈍足組の両方を案内することは無理と予見したのか、三好さんという観光ガイドをお願いしてのデラックスウォークでした。

スタートして間もなくは、もうこのメンバーが一緒に宇和島を歩くことは無いだろうと話していた人がいましたがどうして、どうして、探訪は消化不良で終わりましたから、また計画されるでありましょう。

解散前の挨拶では、三好さんは、健脚の菊池、三好コンビも坂道の多いガイドは、10年後は無理だから5年以内にお願いしますという注文が付きました。

最後は、最近完成した、道の駅・みなとオアシスで海のもの山のものをどっさり買って、解散となりした。

↑宇和島城天守閣前にて
後方左よりガイドの三好・菊池さん、前田さんの夫人、曽根、桑島(松寿会)、前田、鈴木
前列左より、後ろ向きの方、新井、森山、金子、松本の各会員 

【ポイント説明】

宇和島市の伊達家ゆかりの地散策は、宇和島市の新内港に面した「きさいや広場」に完成した道の駅・みなとオアシスにある観光情報センター前での森山世話人の挨拶からウォークはから始まりました。

森山世話人の挨拶は、参加者が15に届かなかった事情と今回は観光ガイド付きのデラックスウォークで、菊池会員の特別な配慮に対する感謝の言葉に終始しました。

本日観光ガイドとしてお世話になった菊池会員(写真左)と三好さんです。

菊池会員の挨拶は、宇和島は坂の町ですという紹介からはじまり、三好さんの、宇和島の平地は埋立地ですと、実に息の合った解説をしていただきました。

写真のように、宇和島市内の観光ポイントのパンフレットも用意していただき少し重い封筒を頂戴しました。

「私は銅像などは要らない」と我を張った法律家穂積某氏の名前がついた穂積橋付近の高野長英の住居跡を経由、それから辰野川に沿って上流へ歩きました。

最初に訪れのは、枯山水の庭園で有名、八代藩主伊達宗城から蒸気船の建造を命じられ、機関や船体の研究をしてとにかく、薩摩についで蒸気船を建造した前原巧山の墓がある西江寺でした。

写真の臨済宗竜華山等覚寺、少し離れた金剛山大隆寺の伊達家の歴代藩主や奥方の墓所を丁寧に案内していただきました。墓石の大小や形の違いについても説明を受けました。

写真の臨済宗金剛山大隆寺は、伊達家より三代前の富田信高が宇和郡10万石の領主として入部した時、信高が父知高のために創建した寺です。

大隆寺には、初代藩主秀宗の奥方亀姫(井伊家から輿入れ)、五代、七代、九代藩主の墓がありました。

奥州の伊達政宗が息子伊達宗秀の宇和島入部に際し、家来のない秀宗のために、人選し使わされた総奉行(家老)山家公頼の廟がありました。

現在、お寺は無住職とききましたが、檀家のお力で見事に保全されていました。

 

国指定の名勝「天赦園」に入園し、入り口近くの広場で昼食を取りました。

写真は池にかかる藤棚で、伊達家は藤原姓にちなみ、園内には、白藤、紫藤のが其処此処に植えられています。

七代藩主宗紀の隠居所として、以前からあった浜御殿を大改造し、竣工した時に天赦園と命名されました。

その名の由来は、伊達政宗が引退後好んで吟じたという漢詩に由来すると聞きました。
馬上に少年過ぎ 世は平らにして白髪多し
残体は天の赦す所 楽しまずんば是を如何せん

搦め手門(児島惟謙の銅像側)から天守閣の立つ広場まで登り、全員で記念写真を撮影。

希望者だけで、天守閣の中に入りました。

この天守閣は伊達二代藩主宗利が1666年に再建した三重三階総塗籠式・層塔型で、太平の世に出来たものであり、藤堂高虎が創建した戦争に備えた望楼型天守閣とは大きく違っているそうです。

しかし、天守閣の中は、各階の階段の傾斜と高さが異なるなど防御の備えはありました。

万延元年(1860)年の大修理の時に見つかった棟札や材料手配書などと共に天守閣の模型が目を引きました。

 


これは、登城口で見かけた喫茶店の看板で、鉄道唱歌「汽笛一声新橋を…」
の作曲家大和田建樹の生家のすぐ近くで見かけました。
 

← 戻る