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今治市沖に浮かぶ小島にある芸予要塞小島砲台を訪ねるウォークは、第三来島海峡大橋の入り口にある道の駅サンライズ糸山から始まりました。
森山世話人の挨拶とコース案内と注意事項伝達ですが、船の運航は一日に数回、一時間半間隔であり、乗り遅れののないよう集合時間を必ず守ること。
そして、来島海峡は流れが速いことで知られており、間違っても船から海に落ちないこと。
の話がありました。
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いきなりでありますが、船着場にあった案内板で、周囲3kmの小島の緑の部分が砲台跡で上から北部、中部、南部砲台ゾーンで、それぞれに砲台、兵舎、発電所、浄水施設がありました。
この案内板の他に、砲台の遺構の写真の説明板がありました。
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兵舎は全部地下壕で、入り口は御影石か輸入したレンガ、壕の中は漆喰またはセメントで処理され、100年以上経過していても、それほど湿気はなく、すぐにでも使用可能な状態でした。
小島砲台は、ロシアの南下政策が顕著になった明治32年(1900)頃造営に着手、明治35年に完成しましたが、ロシア極東艦隊は日本海軍により壊滅、ロシア軍の侵入もなく、砲門は一度も火を吐くことなく、大正13年(1924)廃止され、使い道がないまま放置され、太平洋戦争前には、空軍の爆弾投下訓練の対象物として使用されましたが、頑丈すぎて、戦意高揚にならず、放置されて、遺構が残ったのであります。
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左の写真は、中央砲台に28センチ榴弾砲が6基が台座に設置された頃に撮影されたものですが、上に述べたように、小島では一回も使用されたことはありませんでした。
しかし、日露戦争の旅順の鶏冠山砲台攻撃の時、中央砲台の28センチ榴弾砲が運ばれ、児玉源太郎の指揮のもと、この砲が威力を発揮し、旅順北砲台を陥落させたと伝えられています
また、中央砲台を28センチ榴弾砲をはじめ北部・南部砲台に残された24センチ加農砲や軽砲などすべてが太平洋戦争時の金属回収令により撤去されました。
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左の写真は弾薬庫跡で、案内板には、28センチ榴弾砲、24センチ加農砲の砲弾を格納する建物で、現在は屋根が抜け落ち、レンガ造りの壁が残るだけと書かれてありました。
弾薬という一番大事な、しかも危険な軍用品を保管する建物として、周囲の掘削工事など、極めて厳しい工事がなされているかかれています。
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