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起点となった綱敷天満宮。神社の略記によると、西暦901年2月1日、大宰府に左遷される菅原道真が乗った船が、にわかの時化に逢い、この地の里人が救助した所です。
先の右大臣菅原道真の御座所を設営したが、にわかなことで座布団がなく、里人は舟に使う綱を巻いて円坐にしたという古い言い伝えから、江戸時代に松山藩主が、この地に創建された天満宮の名前が綱敷天満宮となったと記述してある。
大宰府天満宮、北野天満宮にも匹敵するような道真ゆかりの神社ではあるが、創建が新しいためか、社格としては、県社でしかなく、社務所では御朱印もないということであった
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綱敷天満宮の拝殿で参拝を済ました後、広さ約11万u、約3千本の黒松の林を移動する歩こう会の一行です。
現在、松くい虫が、黒松をどんどん枯らしていました。実に残念に思います。
この桜井海岸には、西暦1853年(嘉永6)、黒船が浦賀に来たのを受けて、松山藩が黒船来航の2年後に、天領だった桜井海岸の防備のために築いた砲台(台場)が残っていた。
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綱敷天満宮の境内に、わが国における月賦販売発祥の地という記念碑がありました。
電器業界で最初に月賦販売を始めたのは、昭和26年で、松下電器ですが、それを遡ること150年前頃から、桜井で作られた漆器の商売に、割賦販売の手法が採用されていたことが一般に知られるようになったのは、昭和の終わりの頃でしょうか。
かつて、大阪など大都市には、「丸興」などの月賦百貨店というのがありましたが、この月賦百貨店の経営者は、今治市の桜井出身の人が圧倒的に多いのも、よく知られたことです。
首都圏にある「丸井」という有名デパートの前進も月賦百貨店ですが、経営者と愛媛県の関係は不明確で、先代は愛媛出身者ではありません。 |
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菅原道真公の船が風波にあわれて危なき時、里人が一行を助け、志島の東端に漕ぎ寄せ、菅公は濡れた鳥帽子・冠・装束等を岩上に干された所です。
菅公の衣を干したことから、「衣干岩」と呼ばれ今日に伝えられています。
里人は、折敷の上に鮮魚をのせて献上し、ご安泰をお祝いしたとも伝えられている。
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写真は、上の衣干岩から少し歩いた所にある江戸時代の「椀」の積み出し港です。
対岸へ渡るために、渡し舟がないと、文句を言いながら1km近く余分に歩く一行です。
途中、右手に「椀」の積み出し港という石碑がありました。
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写真は、展望台から写した桜井総合公園の噴水です。ここで昼食を取りました。
展望台の位置は、東経133度02分、北緯34度00分で、なぜ02分、東西にずらして建設しなかったのか、暫く考えましたが、解明できませんでした。
仮説として、展望台からは正面に新居浜市沖の「四阪島」を望むことが出来、ここから東西に02分ずれると、「比岐島」或いは「平市島」に「四阪島」が隠れるからだと思いました。
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写真は、平安の昔、弘法大師が石窟を開いて里人の病気を治したのが始まりといわれる「桜井の石風呂」の中であります。
かつては、何処にでもあった石風呂ですが、現在では日本でも、数ヶ所しか存在が確認されておらず、歴史的にも希少価値がある「石風呂」という説明でした。
洞窟一杯に「羊歯」を燃やし、その灰の上に海水に浸したムシロを広げ、穴に籠った熱と蒸気で体を温めると、海水に含まれるミネラルの効果から神経痛などによく効くと評判だとか。
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桜井の゜石風呂」を過ぎて暫く瀬戸内海の大パノラマを楽しみながら、実にスムースに山の上にある休暇村「瀬戸内・東予」の建物の前に到着。
休憩時間の設定はなく、山を反対側へ下り、写真の医王池という湿地植物の宝庫として愛媛県の天然記念物にしていされている場所に着きました。
ここで、ドライバーにはスタート地点の綱敷天満宮まで車を取りに移動してもらいました。
そのために、世話人は 、スタート時に自分の車を、医王池に回送しておくという準備をしていたのであります。
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