| 左岸と同様、右岸堤防の警戒に当たる中主村「井ノ口」の男たちが土嚢を積むために杭を打とうとしたようだ。 |
| 今更杭を打っても何の効果もないことはわかっていても、なにか防衛の手を講じなければいられなかったのだ |
| ろう。 |
| まさにその瞬間だった。天地を揺るがすような轟音がした。対岸から悲鳴が聞こえ、堤防の人影がかき消さ |
| れた。今にも溢れそうだった川の水位が一気に下がった。みるみる水が退いていく。「向こうが切れた」誰かが |
| 口走ったとき「バンザーイ」、いっせいに左岸の男たちが口をついて出た。こちら側は助かった。人間の命も |
| 財産もみな無事だったという気持ちから思わず吐露した心底の叫びだったのだ。一瞬の出来事だった。 |
| その寸前まで溢れんばかりだった水が破堤した右岸へ向けて、どーっと流れていく。 9月25日午後11時 |
| 過ぎであった。 |
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| たった今、目撃した自然の驚異に膝頭の震えが止まらなかった。対岸の堤防が切れたのだ。堤防の上で |
| 警戒に当たっていた人影は、瞬時に濁流に飲まれたのだ。轟音を立てる水音の中で200メートルも離れた |
| 対岸の声が聞こえるはずがない。しかし、確かに悲鳴が聞こえた気がしてならなかった。それは、人間の生命が |
| 散った瞬間の非現実であったかもしれない。区長以下地区の役員や消防団や青年団の左岸側の男たちは |
| 茫然と堤防の上に立ち尽くしていた。 |
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| やがて東の空が白々とし、悪夢のような夜が明けたとき、彼らは目を覆うばかりの惨状をそこに見たのだった。 |
| それはまさに天地が入れ替わったような様相を見せていた。対岸「井ノ口」の堤防が、およそ300メートルに |
| わたってなくなっており、その破堤個所から濁流は、一瀉千里に「井ノ口」 「六条」 「五条」 「安治」 「須原」 |
| 地区を襲っていた。同時に深掘れした川筋に水位が上昇していた琵琶湖の水が逆流した。そして集落の人家や |
| 田畑を泥水の下に埋め尽くしていた。 ・・・・・ |
| (2004年 田村喜子著 サンライズ出版kk野洲川物語より) |
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