『 私の故郷 夢と信心の街、
そして京阪神のベッドタウンとしての宝塚 』


◆はじめに
 
 宝塚市は私が生まれてから28年間過ごした故郷ですが、宝塚市もまた私と同じ年に誕生しました。
宝塚市は1954年(昭和29年)4月1日に 川辺郡宝塚町と武庫郡良元村が合併して発足しました。市制施行時の人口は約4万人でしたが、その後、大阪や神戸のベッドタウンとして宅地開発が進み、現在では約23万人となっています。なお、私が暮らしていた当時は10万人の市でした。

 宝塚の名前の由来については、「塚」は、「盛り土をした墓(古墳)」を意味するといわれ、古墳が多くありますが、宝塚と呼ばれていた古墳に関しては諸説あって場所が特定されていません。地理的には、阪神間北部に位置しており、西は六甲山系、北は長尾山系に囲まれて、中心部を武庫川が流れていて、その河川敷は、散歩やジョギング・スポーツ会場などとして市民の憩いの場となっています。

 また、宝塚の発展には、阪急阪神東宝グループの創始者である小林一三と阪急電車が大きくかかわっています。 小林一三は、1910年(明治43年)に箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚本線)を建設するとともに沿線のサラリーマン(ホワイトカラー)向け宅地開発を行いましたが、これが日本における鉄道を媒体とした田園都市開発の最初だといわれています。鉄道の起点と終点にデパートと歌劇場などの娯楽文化施設を作り、さらに沿線には神社仏閣の名前を付けた駅を設け、参拝者への利便性と図るといった当時としては先進的な開発を行いました。そのため、現在でも市民の生活には、阪急電車・バスが切っても切れない存在となっています。

 その先進的な開発は、阪神間に多くの知識人や企業家を集め、大正・昭和の阪神モダニズムといわれる文化の形成にも繋がっていきました。そして阪神間は、現在でも大阪や京都とは少し異なった文化圏を形成していて、三都物語といわれる由縁だと思います。

 
◆宝塚の紹介

◆夢の街1 宝塚歌劇・大歌劇場・花の道

 まずは、宝塚市よりも有名な宝塚歌劇についてです。(小学校の頃、先生によく言われました)宝塚少女歌劇は、箕面有馬電気軌道創始者の小林一三が新宝塚温泉の余興として、この路線の集客力を上げるために、1913年(大正2年)、少女だけで結成した宝塚唱歌隊が前身です。

 歌劇の舞台である宝塚大劇場に立つには、養成所である「宝塚音楽学校」で2年間、声楽・バレエ・日舞などをみっちりと身に着けないといけません。その他に宝歌歌劇団のモットーである「朗らかに、清く正しく、美しく」に沿って礼儀作法やマナーを厳しく躾けられます。グレーの制服で阪急電車でも時々見かけるのですが、容姿端麗で姿勢も良く、礼儀正しいので、とても目立ち、近隣の男子学生の憧れでした。ただし、生活指導が大変厳しかったそうで、卒業生は憧れの舞台に立つ方の他、結婚されて良妻賢母となられている方も多くおられます。厳しくしつけられているのでお嫁さん候補として引手あまただったそうです。

 花の道は、阪急宝塚駅の改札を出てから歌劇場や遊園地(閉鎖になった宝塚ファミリーランド)のゲートに導く、両側に桜をはじめ四季の花々や植物が植えられた歩道で車道の真ん中で一段高くなっています。現実世界から夢の国へ誘うように造られていたのですが、私が子供の頃は、ここを通るのは気恥ずかしく感じる道でした。現在もこの道に沿っておしゃれな店やマンションが建ち並んでいます。



写真1 花の道、入り口


写真2 花の道沿いのおしゃれな店と
その上層階のマンション


写真3 花の道 あずま家から眺める歌劇場


写真4 花の道から眺める歌劇場全景


写真5 歌劇場入り口の門
この対面に宝塚
ファミリーランドの入場ゲートがあり
私はそちら専門でした


写真6 歌劇場の入り口

写真7 現在の宝塚音楽学校
歌劇場との間を阪急電車が走ります



写真8 昔の宝塚音楽学校の校舎
まだ残っていました



写真9 「ベルばら」のオスカルとアンドレ像です
 

写真10 宝塚市の花「スミレ」です
市民は「スミレのはーなーさくー頃」というフレーズが
すぐに浮かんできます

   
◆夢の街2 宝塚市立手塚治虫記念館

 花の道の終点、宝塚大歌劇場の近くに私が子供のころに夢中になって読んだ漫画「鉄腕アトム」の作者、手塚治虫の全てが満喫できるミュージアムがあります。
 手塚治虫が、5歳から24歳まですごし、考え方や感性・作風に影響を与えたとされる街「宝塚」に、この記念館が建てられたとのことです。ただ、私がいた当時には、まだ出来ておらず、この場所は、宝塚ファミーリーランドの一画であったと記憶しています。
  ここでは手塚マンガの「ライブラリー」や、オリジナル映像作品を上映する「アトムビジョン」、手塚治虫の仕事机を眺めながらアニメーションの製作体験ができる「アニメ工房」など、手塚治虫の世界を見て、触れて、感じて、楽しむことができます。


写真1 手塚治虫記念館

 

写真12 記念館のエントランス
リボンの騎士とアトムがお出迎えです

写真13 日本初の連続テレビアニメ
「鉄腕アトム」の絵コンテ



写真14 手塚治虫の書斎・執筆風景

 
 
◆信心の街1 清荒神清澄寺 (きよしこうじんせいちょうじ )

 私の実家は上記のような夢のある暮らしとは無縁で、新年の過ごし方は、1日に「荒神さん」に初詣をして家内安全を祈り、10日にに西宮の「えべっさん (西宮戎神社)」にお参りしてその年の福を頂き、19日には「門戸厄神さん」に行ってその年の厄を払ってもらうというのが習慣でした。

 「荒神さん」の名で親しまれる「清荒神清澄寺」は真言三宝宗の古刹で、寛平8年(896年)宇多天皇の勅願によって建立されました。「かまど(台所)の神様」「火の神様」として厚い信仰を集め、境内には大小さまざまの火箸が奉納されています。毎月27日・28日の例祭日、1月の初荒神、年末の納荒神には、現在も多数の参詣者が境内はもちろんのこと、多種多様な店が軒を連ねる参道まで埋め尽くします。参道が狭いのでその日は参道が一方通行になります。

 私が子供のころに両親に連れられて大晦日の夜中や元旦の朝に初詣で参詣した神社ですが、参道が狭いうえに長く、多くの参拝客列にもみくちゃにされながらお参りした記憶が残っています。

 また、清荒神さんの境内には、独自に南画の世界を拓いた近代日本画壇の巨匠、富岡鉄斎(1836~1924)の美術館があります。



写真15 阪急「清荒神駅」
空いていれば徒歩15分で境内につきますが・・・・

写真16 参道の入り口です

写真17 清荒神の山門、案外、小さいです


写真18 拝殿にお参りする人の列(今日は少ないです)


写真19 奉納された火箸の山

 

写真20 ここが本堂です


写真21 一願地蔵尊(水かけ地蔵)は巨大な立像で、
頭上に水を掛けて一つの願いを念ずれば、ご利益が
あると言われています。みんな、柄杓で勢いよく水を
掛けるため、近くの参拝者にも水がかります



写真22 参道の出店です、七味が有名ですが
その他さまざまな物が売られています

 
◆信心の街2 西宮戎(西宮神社)

 宝塚市ではありませんが、阪神電車の西宮駅からすぐの「西宮戎神社」は毎年1月10日の「10日えびす」には、開門神事(かいもんしんじ)と福男(ふくおとこ)選びが行われ、十日えびす大祭が終了すると、午前六時を期して表大門(おもてだいもん)が開かれ、外で待っていた参拝者は、一番福を目指して230m離れた本殿へ「走り参り」をします。テレビのニュースにもよく出てくる光景です。



写真23 西宮神社「西宮戎さん」の表大門
1月10日、朝6時の開門を待って
その年の福男となるため若者が疾走します


写真24 西宮戎さんの境内、ここを
1月10日に若者が本殿をめざして走り参りをします



写真25 拝殿です


写真26 拝殿です

   
◆信心の街3 門戸厄神 (西宮市)

 こちらも宝塚市ではありませんが、阪急電車今津線の「門戸厄神駅」にある「門戸厄神東光寺」は、日本三大厄神の一つとして阪神間では大変有名です。厄年にあたる多くの男性女性が参拝されます。特に1月18日19日の厄よけ大祭には、露店も出て数十万人の方が参拝されます。そのため阪急の門戸厄神の駅から境内まではずっと人の行列でおまけに境内も狭いので、ほとんど立ち止まることができず、行列につながって参拝を済ますことになります。

 東光寺のホームページによると『厄とは災いにあらず、人生の節目に反省を促す昔人の知恵』とあります。その節目にあたり、あらかじめ心の準備をおこたらないように昔人は「厄年」という習わしを考えたとのことです。



写真27 阪急「門戸厄神駅」
ここから歩いて約10分で厄神さんに到着です


写真28 参道途中の道標



写真29 厄神さんの表門、男厄坂の
42段の階段を上ったところにあります


写真30 綺麗な中楼門です。
女厄坂の33段の階段を上ったところにあります


写真31 厄神堂、こで厄除けを祈ります

写真32  家族みんなで厄除けを祈っていました

   
◆信心の街4 中山寺
 
 中山寺は西国三十三カ所の観音霊場、第二十四番札所です。また「安産の観音様」として有名で妊娠された夫婦がご両親を伴って「腹帯」を頂くために参拝したり、そのあと安産のお礼に赤ちゃんを抱っこして各地からの参拝者で賑わうお寺です。そのため、乳幼児を抱っこされた若い方から高齢の方までおられるので、普通のお寺とは違って華やかな雰囲気を感じます。

 お寺の名前が阪急の最寄の駅名「中山観音駅」になっており、駅を出て70mで山門つきます。そして参拝者への配慮から境内には階段の横にエスカレーターが設置され、足の悪い私の母などもとても喜んでいます。

 さらには、境内から約2kmの参道を登ると奥ノ院があり、その先にも近辺の山に通じるハイキングコースが整備されています。そのため、中山寺では参拝客の他にハイキングシューズを履いた山ガール、山ボーイの姿も見られます。奥ノ院では、大悲水(白鳥石の水)といわれる湧水が汲めるので、これを目当てに毎日、奥の院まで参拝されている方もおられるそうです。

 この寺は聖徳太子が大仲媛と忍熊王の霊を祀るために建立されたと伝えられる古寺で、伽藍はたびたびの兵火のため消失しましたが、豊臣秀頼によって再建されたのが現在の建物です。カヤの木から彫り出された本尊十一面観音菩薩立像をはじめとして、数多くの国や県の重要文化財が祀られています。



写真33 阪急「中山観音駅」
ここから3分で中山寺の山門につきます

         

写真34 参道ではお礼参りの為の
腹帯が売られています

 

写真35 立派な山門です


写真36 境内の階段横のエスカレーター


写真37 拝殿です


写真38 安産祈願の祈祷料って高いですね


写真39 中山寺奥の院への参道


写真40 途中、阪神地方の見晴らしの良いところです


写真41

写真42
    お椀を伏せたような甲山も見えています。甲山は、このドーム型の山容から遠くからも目立ち、
   阪神間の人には、滋賀県の近江富士(三上山)のようなシンボルとなっています。
   また、この山への登山は小学校低学年の遠足の定番コースです



写真43 途中の夫婦岩です

 

写真44 途中の苔が生えて雰囲気のある岩です


写真45 やっと奥の院に到着です


写真46 奥の院横の名水「大悲水」の汲み場所です


◆ベッドタウン1 阪急電車(有川浩) (阪急今津線仁川駅~宝塚駅)
 
 私の実家の最寄駅は、阪急電車今津線の小林(おばやし)駅です。阪急電車の中では華やかな神戸線や京都線に比べて地味な路線でその中でも最も地味で何の取りえ(紹介にあたるような場所)が無い駅が小林駅です。その今津線が約7年前に映画『阪急電車 片道15分の奇跡(原作:有村浩)』で取り上げられ、中谷美紀さん演ずるヒロインの気持ちのターニングポイントになったのが小林駅でした。

 私がよく乗っていたころ(およそ50年前)、線路の山手側は、阪急不動産が開発した高級住宅地で反対側は、昔ながらの田園地帯で小学生のころは、そのあぜ道で遊びながら通学していました。しかし、現在では、山手側はあまり変わっていませんが、反対側は田んぼが殆ど無くなり、京阪神に勤められる方のマンションが林立していて少し寂しさを感じました。

 映画の中では、駅名や地名も実名で使われ、車窓からの風景も実際に撮影されたものでしたので大変懐かしく映画を鑑賞しました。映画の中で駅にツバメの巣があり、駅員さんやお客さんが暖かく見守っているというエピソードがありましたが、50年前にもツバメの巣が沢山あり、頭に糞を落とされないように気を付けて乗降していた記憶がよみがえりました。阪急電車は、外装がマルーン色(えんじ色)で車内のシートがグリーンのビロード地が使われていて、私は現在でも日本で一番きれいな電車だと思っています。



写真47 通学でよく使っていた阪急小林駅


写真48 駅構内でツバメの巣があったところ


写真49 小林駅 宝塚行ホームと阪急電車


写真50 モダンでシックな阪急電車の車内(宝塚駅構内)


写真51 映画「阪急電車」の主人公がウェディングドレスを
脱ぎ捨てて代わりの服を買ったスーパー


写真52 阪急西宮駅、今津線なのに現在は
今津に行くにはここで乗り換えが必要になりました


◆ベッドタウン2 武庫川河川敷

 武庫川は、篠山に源を発し、三田盆地を抜けて、宝塚市、西宮市の真ん中を通って瀬戸内にそそぐ川で宝塚市のシンボルにもなっています。私が小さかった50年以上の昔は、上流(宝塚温泉の少し上)で、泳ぐことができ、親父と一緒に行ったことがあります。但し、現在では上流の三田市が大規模に開発されたため水が汚れ、泳ぐことができなくなっています。

 その代り、宝塚から西宮を通って甲子園の海岸まで河川敷が公園として整備され、毎日、多くの方が散歩やジョギング、クラブ活動で汗を流してます。私も中学の時、この河川敷で開催された阪神地区の中学校の駅伝大会に出場したことがあります。



写真53 親父と一緒に泳ぎに来た、思い出の武庫川河原
(歌劇場の少し上流)

 

写真54 武庫川河川敷から見える高層マンション群
今の宝塚のランドマークになっています


写真55 河川敷でスポーツ(テニス)を楽しむ子供たち


写真56 この河川敷の公園が甲子園浜まで続きます


写真57 照明持参でサッカーの練習をする地元チーム


写真58 宝塚市役所


◆おわりに

  今回、この記事を書くにあたって、昔よく行ったところに訪れて当時を思い出すと、私が育った頃の宝塚と私が子供を育て、現在も住んでいる大津市田上地区が似ていると感じられました。30年の時代の差はあるのですが、私が武庫川で泳いだように、子供たちは田上の天神川で泳ぎ、私が少年野球に夢中だったように、子供は地域の人に見守られながらスポーツ少年団のサッカーやバレーボールに明け暮れていました。

 私には、華やかな都会の喧騒よりも、人と自然に囲まれ、ゆったりと時間の流れる地域が生に会っていると思います。私の子供たちにも田上が心に残る故郷であることを願っています。


付録:宝塚の歴史

7世紀初期より 中山寺、売布神社などの寺社が創建される。
1223年(貞応2年) 「小林の湯」(後の宝塚温泉)の記録がなされる。
16世紀後半、 山本村で接ぎ木手法が発見され、豊臣秀吉の庇護の下、植木産業の礎が築かれる。
1887年(明治20年) 宝塚温泉が開業。
1897年(明治30年) 阪鶴鉄道(現在の福知山線(JR宝塚線)大阪~宝塚間)が開通。
1910年(明治43年) 箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚本線)が開通。(阪神間モダニズム)
1914年(大正3年)4月1日 宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)第1回公演が挙行
1926年(大正15年) 宝塚と今津の間の全線が開通し、阪急今津線となる。
当初は、西宮駅で神戸線と平面交差する全国でも珍しい路線であったが、1984年(昭和59年)に西宮北口駅構内の平面軌道交差が廃止され南北の線路分断された。そのため、現在は宝塚から今津に行くには西宮で乗り換える必要がある。
1954年(昭和29年)4月1日 川辺郡宝塚町・武庫郡良元村が合併して宝塚市が発足。
1995年(平成7年)1月17日 阪神・淡路大震災によって、100人を超える犠牲者を出す。

 
                                                2017年 5月          
                            〈投稿者〉 大津市在住  半井 尚