『 中山道第六十七番目・武佐宿』   

 武佐宿の由来
  
     武佐宿の成立は、中山道が整備された江戸時代以前にさかのぼり、鎌倉時代には宿の機能を有していた。
     武佐宿の入り口に鎮座する、八幡十二神社に残る記録に、慶長七年1602年、徳川家康の中山道整備に
     際して、山手にあった(古くは東山道)家々が、街道沿いに移されたと記されている。
     旅籠屋の数は武佐町に42軒、長光寺町に17軒、宿の種類は飯盛旅籠(給仕女性がいる)、平旅館(給仕
     女性がいない)、木賃宿(自炊をする)などがあった。
  



むしゃりんどう

武佐升(成田家所有)
 
むしゃりんどう

     武佐で発見された「むしゃりんどう」、現在では北海道に少々自生している程度で、絶滅の危機にさらされて
     いる。環境省のレッドリスト2007(絶滅の危険が増大している種)の、絶滅危惧Ⅱ類(VU)に登録されている。
     むしゃりんどう保存会として活動、2014年に近江八幡市の花に選定されました。
  
 ◆ 武佐升

     天文十三年、近江佐々木氏が年貢を量るのに武佐升を用いたのが始まりで、武佐升の大きさは八合二勺。

 ◆ 京の都に向かう中山道武佐宿の玄関



武佐宿の入り口  武佐神社  寄進の中に西川甚五郎氏、市田氏
 などの八幡商人の名前が多くある 
      武佐神社:本殿は都の方角を見ている(鳥居は南向き)。近隣の神社はすべて京の都を向いている。

 ◆ 脇本陣

     武佐宿 入り口側に脇本陣があり、本陣は京の都側の中程に位置する。



 小学生が作成した案内板  脇本陣(奥村三郎右衛門家が勤めた)
(現在は武佐公民館)
 馬頭観音
 本陣

     江戸時代には、参勤交代の大名はじめ、勅使、宮門跡、公卿、幕吏などの休泊所であった。
     (本陣というのは、天皇が朝覲行幸の行列の中心である鳳輦を囲む一連をいった)
     下川家は寛永年間頃から明治五年(1872年)まで、宿駅制の廃止まで代々努められていた。
 


 小学生が作成した案内板

本陣(下川七左衛門家が勤めた) 


 道  標 将軍家に献上される象やラクダ
の通行があった。 


二っ橋(二艘の船で橋にした)
(中山道広重美術館蔵) 
 ◆ 今も残る町並み
 
 

     宿駅にて、伝馬・商荷の継立御用通行の宿泊手配の責任者大谷家は、真田幸村でお馴染の先祖であり、
     家は建て替えられたが枯山水の庭が残っている。



 大谷家

 商家

 町並み(格子戸が残る)
  ◆ 武作寺 広済寺

     聖徳太子が武河綱に命じてこの地に建立。天台宗より真宗に改宗。
     後光厳天皇の滞在、安休房(十三代)住職となる。明治天皇行在所とされた。 中に高座の間がある。

     伊達正宗が京に向かう為の日程調整として、七日間程宿泊したとされる。
     当時の、伊達正宗 手植えの紅梅が、今も健在である。(伊達正宗の日記により、仙台から梅の確認に来られた)  


     
 明治天皇行在所石碑 正面入り口、左奥に本堂が見える  由来の墨書き看板

 ◆ 我が家も八幡商人 

 
 明治初期の商家(成田家) 舶来品石炭油の販売
静岡、東京新橋に出店
 当時の台帳(江戸期から明治時代)

 
  ◆ 我が家のお雛さん

     八幡・西川家より息女が嫁いだ際に、持参したものと思われる、古今雛(江戸期)。
     時代によって顔の形に変化が見られる雛人形


  
                       大正時代のお雛さん            江戸期のお雛さん

                    (関西では雛人形に向かって右に男雛、左に女雛を置く。)

 
東山道に残る除夜燈
 (前の道が東山道)

 
鳥居をくぐると、右側の八幡十二神社と、左側の武作寺長光寺が参拝できる。  
(鳥居の中に、神社とお寺があるのは、古くは神・仏一体の証)
  
   


安土浄厳院道

中山道から八風街道へは基点にあたり、石碑には
「いせ ミな口 ひの 八日市道」 と記されている 
  瓶割(かめわり)山城 遺跡

     瓶割山(長光寺城が1468年築城)比高123m(標高234m)。
     瓶割山の山名は、1570年に柴田勝家が、近江守護佐々木六角義賢と戦った際に、城中の水瓶を打ち割って
     
城兵を奮い立たせ戦いに勝利したことから、「瓶割り柴田」の異名を取ったという伝承に由来する。


  
 ◆ 嫁入りに中山道が東海道より通行が多かった理由

     中山道は峠の多い険路であるにもかかわらず、二代御将軍秀忠の娘和子が、後水尾天皇に入内
     したのをはじめ、和宮や将軍家へ嫁ぐ姫宮などが通行した経路であった。
     これらの通行に、中山道が用いられた理由は、一般的に東海道は大名などの交通量がかなり多い
     こと、特に女性旅には川や渡しの多い東海道は、川留めによる負担や心配があったためとされる。
     姫君の入輿であることから、「婚礼」という道中の縁起もあったとされる。

 ◆ 「むしゃりんどう」に関する問い合わせ先

     武佐学区まちづくり協議会   (武佐コミニュティセンター内)

     TEL・FAX     0748-37-6017   (日・月 及び 祝日は休館です)
     メールアドレス   musa-cc@zc.ztv.ne.jp

 2016年 11月                 
<投稿者>                    
近江八幡市在住 成田 傳良