「河が育んでくれたもの」
わが故郷に車を走らせた週末
【甲賀市土山町】
誰にも故郷があり、その思い出を語ることは、様々な意味を持つ。故郷を語る時、そこで暮らした生活の様もあるが周囲
の景観が必ず、そこに身を置く自分に語りかけるのである。
私は、滋賀県甲賀市の盆地に生まれた。静かな光景である。 家は農業をしていたのではなく、朝の四時に家を出て大阪まで勤務する父親がいて、母は教師の、サラリーマン家庭だった。そこで小学校の五年生までを過ごした。私が三歳の
頃、父親の関係で東京に三年ばかり居住したこともあり、正しく、戦後の「エログロナンセンス」と形容された都会の雑踏
に、謂わば三つ子の純朴な魂を晒した。これは、後で考えると様々なものを与えてくれ、私の成育に特徴を持たせたが、
今回は述べるに時間がない。再び滋賀県に戻るも、小学六年生以降は大津市に転居し、大津や大阪に在学し通ったこともあって、社会慣習や人との関わり方は時代の急激な変化もあり、それまでの生活から明らかに大きく変化していった。
瀧樹大橋より野洲川下流を望む
わくわくする魚影を発見
街の光景は、現実の生活の厳しさを人の心の中に反映させる。建物、交通、ビジネスには、人の知恵や思惑があり、「町社会」の動きの中で神経を擦り減らす。
山は遠くにあって悠然と人の心を包み込み、自然の雄大さを感じさせてくれる一方で、時に不動のもどかしさに、歯がゆさすら、感ずることもあったろうか。
河川は、正しく生活の礎である。この川を渡って、父は大阪に通うため対岸のバス停に向かい、朝四時の始発に乗った。週に一回の休みもなく只々働いたであろうが、働く姿は終ぞ私は実際に見たことがない。親の姿、子知らずだ。川が増水した日には腰まで水に浸かって、対岸で着替えて、濡れた衣服を束ね持ち、バスに乗ったと聞いた。
一方、今や、齢九十を超えた母親は、当時、対岸の村から嫁ぎ、私をこの世に産んだ。母は教師をしており、この川を渡り、自転車かバスで通勤をしていた。
乳呑児の私を祖母がおぶって授乳のために川を往復したという。母乳に替る乳製品がなかったのか。交通の発達した今なら、考えられもしない光景だ。
ともかくも、私の健康を川は育んだ。それだけではない、当時は、学校は勿論、スポーツ施設のプールなどない時代であり近所の友達と、麦藁帽を被り、トラックの黒いチューブを膨らませて「浮き輪」に仕立てたものを、誇らしげに小さな肩に担ぎ、先頭を胸張って闊歩する、そんな写真が残っていた。
おそらくは、夏の一日を全身が真っ赤に真っ黒になるまで、時間の経つのを忘れて、川遊びに興じたのであろう。水中での悪戯は、潜っている仲間に、石と石とをカチカチと打ち鳴らすと、仲間の耳に痛く、不快に響く。誰がやったと気色ばみ、犯人捜し、止めろと叫んで、今度は秘かに仕返し、とぼけあう中で、笑いが生まれ、互いの茶目っ気を許す。
写真が残っていることを思うと、これは、父の弟が、好きなカメラのシャッターを切りこの写真を残しておいてくれたのだと思う。その叔父も、父もすでに他界し、この写真を見ながら、懐かしく語ることはなかったが、自分の中に、その記憶は歴然と蘇る。多忙にかまけずに、生きているうちにもっと語り合っておけばよかったとしみじみ思う。
野洲川の水は実に冷たかった、流れも速かった。しかし淀み、深みのあるところは流れも弱く、潜水して、水中眼鏡で見る光景は、別世界であった。
映像と言うか、そうした媒体に乏しく、映画やビデオ等、創り出された映像を見ることは少なかった。村の中に数台のテレビが、設置されたのは、昭和三十四年の頃だった。子供たちは当時、わくわくして「月光仮面」を見る七時前にはテレビのある家に集合し、時間が変わると、大人たちは、力道山が躍動し、活躍する「プロレス」を見る為に、テレビを所有した家に集まって来た。格別に、お茶やお菓子が振舞われるまでもなく、事前の来訪の断りも約束もないが、人々は、必ず、「こんばんは、テレビ見せとくれや」の一声で、集まってきた。そして、子供達も、大人達も手を叩いて、正義の味方の登場を待ち、勧善懲悪に酔いしれた。
野洲川は、標高1210mの鈴鹿山系が広がり、琵琶湖に注ぐ最長の河川である。
国道一号を鈴鹿に向かうと田村神社が見えてくる。坂上田村麻呂を祀った神社である。第一鳥居から、三つの鳥居を進んでいくと、拝殿があり、厄落としの太鼓橋を越えて右側に、願成就の清め道があり、それを下ると、田村川の清流が見える。この川辺に出て、川面に顔を近づけて川上から川下を見渡すと、夏場でも涼しい風に触れ、暫しその場を離れない。あの野洲川に注ぐのだと思うと、鮎住む清流の優しさに、思わずしゃごみ込んだまま時間を忘れる。
野洲川を下流に更に下ると今や、コンクリートの立派な橋があり、そこはミキサーカーやダンプ等の重量車も通れるようになっている。もはや昔の面影はない。
当時、鮎を取るため、近所の逞しい体躯の叔父さんに連れられて、父親と網打ちにいつぞや出かけたことがある。流れの速い野洲川を対岸まで渡る。
いつもは軍隊風に突き放す厳しい父が、流れの速さにさらわれまいと、がっしりと私を脇に抱えてくれた。それでも、足元をすくわれ、流れだしたゴム草履を、激流に身を投げて追う父親の姿に 子供心ながら憧憬を覚えた。
考えてみれば、こうした姿を子供に見せることは滅多になかった。満州、ビルマ等、戦地に赴き、17年間三度の出兵の後に、帰還した父親は近寄りがたく、厳格な存在であったのに、対岸に向かう間、父は強靭で、叱るだけでなく身を挺して守ってくれる存在だと痛感したのを覚えている。野洲川がその機会を与えた。 父は、その後も前と変わらず、沈黙する男の強さを子供に見せつけていた。ただ残念ながら、私は父とは似ず、母に似て、饒舌家になった。ただ、そうした激流は、今は姿を消した。河川管理の充実だろう。
野洲川の傍に、八幡神社と言う村の神社があった、「はちまんさん」と呼んでいた。夏の境内は蝉の声が止まない。急な夕立があり、雷鳴が轟くと家に帰るに帰れず製茶工場の軒下を借り、悪童たちと稲光と雷鳴におびえ、大声を上げスリルを楽しんだ。
五月三日に「ケンケト踊り」と言うのがあり、無形文化財にもなっている。この神社で笛や太鼓の囃子で踊りを奉納した後、土山町前野にある瀧樹神社に向かい、そこで踊りを奉納する。
踊り子は、氏子の中から、選ばれた七才から十二歳の長男と決まっていた。顔に白粉を塗り、眉を描き、紅をさすと、誇らしさの混ざった、一種独特の気分になった。頭にキジの羽根を付け、落ちないように布で巻いていたが、その時の誇らしい顔は、以前、写真があったのだが、今回どこに仕舞い込んだか失念して、掲載できなかった。
八幡さんから瀧樹神社まで、約三キロの道のりを親や親せきの人が肩車をして運んだ。乗せて歩く労力もさることながら、乗せられる方も、足が付け根から痺れ、直には立てなかった。確か十一歳の年に、先頭で、その当時の郵便局長の息子と踊った。 「げえにもぉ、さあとないやあよげ、にもさああとなさわ、けんけと けんけん けと けんけんけとけんけん」
この節回しと台詞は今でも覚えている。口積み覚えたからだ。
ふと、境内を歩いていると、老婆が一人、近寄ってきた。最近、転倒して足が痛いという。私から、親戚の名を挙げ、母屋の名を挙げ、母親が教職についていたことを話した。名前を挙げると、喜色満面に想い出を探っているようであった。沢山の名前を挙げると、今、何をしているのか、どこに住み、何を生業にし、どんな人であるのか、今の消息も含めて話してくれる。
つまり、人は皆、隣人であり、地域が深い繋がりを持った「大きな家族」なのだ。
ケンケト踊りの話も出た。当時は、踊ることのできるのは、長男のみで、四年に一回であったと初めて知った。確か学校を早退して、八十近いおばあさんの指導で、このケンケト踊りを習得していった。
今、この間近にある公民館に写真や道具類などが保管されていて、館長管理人は、小学時代の同級生だった。みんなの健在ぶりを喜んだ。わずか四時間ばかりの滞在のなかで、何年もの歳月を振り返ることができた。帰ったら母親にと、老婆の名前を聞き出そうと境内を見渡したが、その姿はもうなかった。これから、蝉の声が激しくなり、野洲川や、周りの山々の木々も蒼さ、緑を増すだろう。
ふりかえれば鈴鹿山系
田村川の冷たい清流
下流に遊び場があった
はちまんさん
八幡神社より野洲川下流を垣間見る
2015年 7月
<投稿者>
大津市在住 長谷川洋史