私の住む旧石部町は平成の市町村合併以前は旧甲賀郡に属していました。 甲賀と言えば忍者が住む町?いえいえ、それは昔の話、甲賀は忍者の里として全国的に知れ渡っているのは滋賀県にお住まいの方であれば誰もが知るところでしょう。 ところで私も甲賀のことを「こうが」と発音することが多いのですが、正しくは「こうか」が正しい発音です。 さて、その忍者ですが、全国的には、お隣三重県の伊賀忍者、新潟の戸隠忍者、等とともに、近江の甲賀忍者が有名です。今回はこの甲賀忍者の興りと現在に残る地名の関係を報告させていただきます。 このテーマを思い立ったのはJR草津線甲西駅のすぐそばに針と言う交差点がありますが、「針」とは変わった地名だなと思って調べるとどうも甲賀忍者と大いに関係のある地名と分かり、これは一度調べると面白そうだと思ったのがきっかけです。 最初に甲賀忍者とはいったい何者なのか? 甲賀町、甲南町、信楽町、土山町、水口町、甲西町、石部町の旧7町に広く住まいしていた武士集団で、一般的な概念の武士とは異なり、普段は農業をしたり、行商をしたりして各地の情報を探る一方、集団の決定が下ると戦場に赴いたり、後方での工作活動に励み、手綱に優れたと言われています。特に薬の扱いがうまく、その名残として甲賀には製薬会社も多く存在しています。 甲賀忍者の事を「甲賀流」忍者と言われ忍術流派の総称ですが、「甲賀流忍術」と言われるものは存在せず、あくまでも甲賀に伝わる複数の流派が合わさって甲賀流と呼ばれています。まさしく甲賀武士集団と考えたほうが良いように思えます。ただし、お隣の三重県の伊賀に伝わる伊賀流にはその統領としての服部氏が存在しますが、甲賀にはその束ねとなる統領のような武家は存在せず、あくまでも集団指導体制だったようです。 では、その集団指導体制はどのように行われたのかを記載してみます。甲賀衆は佐々木六角氏の傘下に属しながら「惣(そう)」と呼ばれる独自の地域自治連合体を形成していました。(六角氏と甲賀衆の関係は後ほど触れさせていただきます) 郡にかかわる案件の運営は多数決で決定する「合議制」により行われています。この時期(中世室町〜戦国時代)にしては、全国的に非常に珍しい地域であったと思われます。「惣」には三種類あり、「郡中惣」「地域連合惣」「同名中惣」と呼ばれていました。各氏族はこのいずれにも属しており、各々の「惣」に関する案件処理を行っていたと言われます。 各々の「惣」について記載します。 ・郡中惣 甲賀には五十三家あったと言われており、その中で代表として十家を選び、その合議より郡全体にかかわる案件などを決定していたようです。家柄による身分差は無く、全ての家々は同格に扱われていたと思われます。 今でいえば郡の最高決定機関とも言えるのかもしれません。 (甲賀五十三家については、後ほど説明させていただきます) ・地域連合惣 甲賀五十三家の中、甲賀二十一家で構成される惣で、四つの惣を形成していたと言われています。各々「柏木三家」「北山九家」「南山六家」「荘内三家」です。二十一家に入らない家は地域ごとにこの四つの氏族の下に入り、それぞれの地域の案件を合議により決定していました。 (甲賀二十一家については、後ほど記載します) ・同名中惣 これは五十三家の各々の氏族ごとに代表者を選出し、本家分家等同名の一族が参加して、多数決で氏族ごとの案件を決定していました。 <六角氏と甲賀衆の関係> 釣の陣(足利幕府が近江佐々木六角氏討伐)と甲賀五十三家について記す前に、少し歴史をさかのぼって、応仁・文明の乱に触れる必要があります。応仁の乱で室町幕府の力が弱まるとともに、各地の荘園体制が崩壊しここ近江の地でも佐々木六角氏(六角高頼)が近江国内の寺社・公家・幕府領を押収し続けたため。応仁の乱以降弱った幕府ではあったが、遠方まで遠征する力は無いものの近郊の近江程度は征伐軍を発する力があり、長享元年(1,487年)将軍足利義尚ひきいる軍勢が、今の栗東にある安養寺に陣をひき戦いを始めました。
甲賀衆を記したものとして、貞享年間(1,684〜7)に編纂された近江の地誌『近江淡海温故録』によると下記のように記されています。
甲賀は都に近く情報が入りやすわりには、山間部にあり、そして常に合戦に関ってきた経験は、後の世に「甲賀者」呼ばれる、「忍者」に発展する素地を備えていたものと思われます。 <甲賀二十一家> 山中家 伴家 美濃部家 黒川家 頓宮家 大野家 岩室家 茶川家 隠岐家 佐治家 神保家 大河原家 大原家 ここまでの二十一家を甲賀二十一家とされています <甲賀五十三家> 上記二十一家に加えて 小泉家 倉冶家 夏見家 杉谷家 針家 小川家 大久保家 上田家 野田家 岩根家 新城家 青木家 宮島家 杉山家 葛城家 三雲家 望月家 牧村家 八田家 高野家 上山家 高山家 守田家 嵯峨家 鳥居家 平子家 多羅尾家 五十三家となります。 中でも有名なものを紹介させていただきます。 ・望月家 甲賀五十三家の筆頭格に数えられ、伊賀の「服部」甲賀の「望月」と並び称されます。今も甲南町に望月出雲守屋敷跡が ・三雲家 三雲城跡が有名ですが、三雲成持の兄三雲賢持の子が真田十勇士で有名な「猿飛佐助」のモデルとも言われています。 ・杉谷家 杉谷善住坊 鉄砲の名手で、織田信長が越前朝倉氏攻めの途中浅井長政に挟撃され京に逃げた後、岐阜城へ帰還する途中鈴鹿の千草峠を通過するときに善住坊が信長を20mの近距離から狙撃し、顔にかすり傷を負わせたことで有名な人物。 この千草峠は近江から三重への鈴鹿超え峠のひとつで御在所岳の近くにある国見岳と水晶岳にある間道です。 ・多羅尾家 明智光秀が本能寺の変で織田信長を討った後、徳川家康が急いで近畿を脱出する時、信楽にある多羅尾家にかくまわれ、その後伊賀衆に助けられて脱出に成功したことで有名。 ・高山家 高山右近はこの家の出とも言われています。 ・飯道山 岩尾山 これらの山には奇岩・怪石が多く、忍者が修行した山と言われています。 などなど上げれば限がないほどの逸話を持つ甲賀衆です。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|