『 あまり知られていない手軽に行ける大津の史跡』
 

◆大津市内の有名な社寺仏閣や名所旧跡と言えば、比叡山延暦寺や石山寺、三井寺円満院、疎水、瀬田の唐橋等々が挙げられますが、今回はあまり有名でない史跡で、手軽に訪問できる大津市内の史跡をご紹介いたします。
 散歩がてらにこれらの史跡を巡ってみては如何でしょうか?

<@ 石 碑 >

   三権分立を確立させた大津事件勃発の地
       (大津市京町2丁目)


◇明治24年5月11日、大津市内をパレード中のロシア帝国のニコライ皇太子とギリシャ王国ゲルギオス皇子が、警備の警察官 津田 三蔵巡査に斬りつけられた暗殺未遂事件が起こった所です。
政府は、津田巡査の即時極刑を望みましたが、時の大審院院長 児島 惟謙は司法の独立権を守り、無期懲役刑としました。
 三権分立の意識を高めた事件として知られています。

 


      遺跡の無い古城「大津城跡」
       (大津市浜大津1丁目)

◇坂本城廃城後、天正14年(1586年)に豊臣秀吉の命により築城されました。
 4代目城主、京極 高次は関ヶ原の合戦の時、城もろとも大津の街を焼き、西軍を足止めして、合戦に大きな影響を与えました。その為に遺跡がありません。
 遺跡が残ってない城としては、全国的に非常に珍しいと言われています。
 又、京極 高次の妻は織田信長の妹、お市の方の三姉妹の二女『お初』です。
 (長女は淀君、三女は江与)

      三国之関の一つ 逢坂山の関所
         (大津市大谷町)

 西暦646年に初めて置かれました。
 平安時代は、不破関、鈴鹿関と共に三国之関と言われていました。
 逢坂の関を題材にした歌も色々ありますが、清少納言の
『夜をこめて 鳥の空音は はるかとも よに逢坂の 関はゆるさじ』は有名な歌の一つです。

 
                 明智光秀の弟、明智光春の湖水渡りの地
                      (大津市打出浜)


◇天正10年(1582年)6月2日未明に明智光秀と共に、本能寺を襲撃した後、安土城の守備に就きますが、織田信雄に攻められて落城しました。
 坂本城に引き返す途中、山崎の合戦で明智光秀が敗れたことを知り、豊臣秀吉軍より先に城に着く為、この地より乗馬のまま湖水を渡り、、坂本城にたどり着きました。
 しかし、天正10年6月14日坂本城は落城し、明智左馬之助光春は、妻子共々自刃しました。
 ちなみに現在、坂本にある有名な天台宗真盛宗総本山の西教寺は、明智家の菩提寺として明智家一族の墓が今もございます。
   
      帝国陸軍歩兵第9連隊の跡地
        (大津市御陵町)

◇明治7年にこの地に設立された帝国陸軍歩兵第9連隊の建物跡です。
 戦後この地は、アメリカ軍進駐軍基地となりその後、地域再開発で建物は総てなくなりました。
     大津陸軍少年飛行兵学校の跡地
        (大津市御陵町)


◇昭和17年10月 に開設されました大津陸軍少年飛行兵学校からは、およそ8,000人に及ぶ15〜6歳の少年が、若鷲となって大空に巣立ち、愛機と生死を共にしました。
 戦後、この地に彼らの鎮魂の為、『若鷲の碑』が建設されました。

    大津名誉市民、堤 康次郎氏の銅像
    (大津市御陵町 歴史博物館保存)

◇西武グループの創業者である堤 康次郎氏は、明治22年3月7日に愛知郡泰荘町の生まれで、44代衆議院議長を務めるなど、国会議員13回の当選を果たしました。
 一方で、今日の大津市の街づくりに貢献された功績で、名誉市民となっています。 
 しかしながら評論家、大宅壮一からは『近江の知能犯』というレッテルを貼られ、彼の手腕が非難されました。


<A陵 墓>  
                   幻の天皇第39代弘文天皇陵
                     (大津市御陵町)


◇明治までは39代天皇は天武天皇になっていましたが、671年12月3日に38代天智天皇が崩御された後、天武天皇が飛鳥浄御原宮で673年に即位されるまで、1年以上の空白期間がある為、明治政府は天皇家は万世一系であるとの考えから、天智天皇の嫡男であった大友皇子に39代弘文天皇として諡号(しごう)されました。
 尚、同じように追贈された天皇は、47代淳仁天皇、85代仲恭天皇などがおられます。
 ちなみに今上天皇は125代目です。
 
    朝日将軍 木曽義仲(源 義仲)の墓
         (義仲寺)
 
◇源頼朝、義経の従兄弟にあたる源義仲は、1180年木曽で挙兵し、信濃、北陸の平家を討伐して1183年に京に入り、平家を追放しましたが後白川法皇の策略で義経に追われ、1184年にこの地(粟津の合戦)で壮烈な最期を遂げました。

        俳人 松尾芭蕉の墓
          (義仲寺)

◇芭蕉は木曽義仲の墓を度々訪れ、『古池や 蛙飛び込む 水の音』などの句を詠んだと言われています。
 1694年10月12日に大阪で逝去した時に、本人の遺言でここに墓が建てられました。
 遺句と言われる
『旅に出て 夢は枯野を かけめぐる』の句碑もここにあります。
 

      新羅三郎義光(源 義光)の墓
        (大津市園城寺町)

◇源氏の祖、源頼信の子である源頼義の三男として生まれ、後三年の役の時に、苦戦している兄、源義家を助ける為に、都での官位を捨てて奥州に向かい、功績を挙げました。
 尚、新羅(しんら)とは、園城寺北院の鎮守である新羅神善神宮で元服したことに因みます。

<B社 寺>

                       蝉丸神社3社
           (写真は上から分社=大津市大谷町/上社・下社=大津市逢坂1丁目)

◇小倉百人一首でお馴染の蝉丸法師の歌、『これやこの 往くも還るも 分かれては 知るも知らぬも 逢坂の関』は有名ですが、本人は謎の多い人物だと言われています。
 醍醐天皇の四男として生まれましたが、盲目であったことからこの地に捨て置かれたそうです。
 蝉丸は琵琶の名人(元祖琵琶法師)でもあり、法師というよりは楽師としての名が高く諸芸道の祖神として祀られています。
 分社、上社、下社、の3社を合わせて蝉丸神社と言います。
 分社は蝉丸神社と言いますが 上社は関大明神蝉丸宮と言い、下社は関清水大明神蝉丸宮と言います。
 上社には珍しい竹でできた鳥居があります。(写真中央右)
 又、下社は、京阪電車の踏切と接しています。 (写真下右)

 
                        義仲寺
                    (大津市馬場1丁目)

◇木曽義仲没後、彼の側室であった巴御前が草庵を結んだのが最初と伝えられています。
 巴御前の没後,この庵は巴寺と呼ばれました。木曽義仲の墓の横に巴御前の墓もあります。又JR、大津駅の横にあった木曽義仲の側女、山吹御前の塚もここに移設されています。
 尚、山吹御前の碑は、今もJR大津駅の横にあります。
 昭和42年11月に境内全域が文部省より国の史跡に指定されました。


                      新羅新善神宮
                     (大津市御陵町)

◇新羅三郎義光が元服した神宮です。

義仲寺

新羅新善神宮

<C名 所>  
                    旧国鉄東海道線逢坂山隧道
                    (大津市逢坂山1丁目)


◇旧逢坂山隧道は、明治13年6月28日から大正10年8月1日まで東海道線の大動脈として使用されてきました。
 全長は664mあり、生野銀山の労働者が伝統的なノミやツルハシを主体とした手彫りのトンネルです。
 平成20年に経済産業省から近代化産業遺産に指定されました。
   
       穴太遺跡の特殊カマド
     (大津市御陵町歴史博物館保存)


◇西大津バイパス工事の時に穴太で発掘された特殊カマドは、現在日本唯一の発掘物です。
 穴太地区は『穴太積み』に代表されるように、古来より渡来人との関係が深く、この遺構は7世紀前半の物と見られており、現在、朝鮮半島で見られるオンドル施設の原型と思われています。
    

     逢坂山の山越えの支えとなった車石
      (大津市御陵町歴史博物館保存)


◇牛馬車の車輪の幅に合わせて道路に二列に敷設された凹状の舗石はあちらこちらで目にしますが、逢坂山から京都三条までの12Km間におよそ二万両の費用をかけて1804年に完成いたしました。
 これにより、大津から京都間の運搬労力がかなり軽減されました。
 

 

      滋賀県初の都市公園、長等公園
         (大津市三井寺町)

◇明治35年に桜の名所の長等(ながら)山の一角に滋賀県初の公園として開園しました。
 この地には、平清盛の弟、平忠度(ただのり)が源氏軍に取り囲まれた時に即効で歌を詠み、敵に感動を与えて命を助けられた場所とも言われています。
 その歌、『さざなみや 志賀の都は 荒れにしお 昔ながらの 山桜かな』のナガラが地名の由来とも言われております。
●内容につきましては異説もございますが、敢えて追記はいたしておりません事をご了承ください。

                         

                             取材(写真・文責)  中村 徹   2010年4月