『
湖北の古戦場』
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◆私の故郷を紹介します。18歳まで育ったところは旧浅井郡小谷村大字河毛(現湖北町河毛)です。 |
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【浅井三代記】 | |||||
◆この地方を紹介するには浅井長政を抜きには語れません。 湖北町丁野に「三条公綱お手植えの銀杏」がある。浅井家の祖先は京の公卿、三条家と言われているが疑問? 当時、北近江は京極氏の支配下にあり、その家臣の浅井亮政は小谷城を築城して勢力を拡大していく。三代目の長政は父の久政を隠居させ、16歳で当主になり、勢力を愛知川付近まで拡大する。 ◆その後、織田信長と同盟を結び「お市の方」と政略結婚をして一男三女が生まれる。 1570年織田信長は長政との同盟を破り、越前朝倉を攻める。長政は朝倉に味方 信長は京へ逃げる。 この年の6月に信長が報復「姉川の合戦」が開戦。 長政は戦いに敗れ小谷城に逃げ帰る。1571年に信長は佐和山城を落とし、1572年虎御前山に陣を構え、1573年小谷城に総攻撃をかけ、9月1日、久政、長政自刃。浅井三代50年の歴史を閉じる。久政49歳、長政29歳。 |
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丁野岡本神社の三条公綱お手植えの銀杏 |
小谷山 頂上から右方向の尾根に城があった |
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虎御前山 織田軍が陣を構える |
山本山 浅井の出城があった(湖北町山本) |
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【小谷城跡】(JR北陸線河毛駅から徒歩20分。バスもあり) | |||||
◆湖北町と浅井町(今は長浜市)の町境の標高495mの小谷山。1525年浅井亮政が築き、1573年信長に敗れた短命の城。国指定の史跡で日本五大山城の一つ。 ハイキンギコースはよく整備されており、大手道コース、清水谷コースなどがあり、山の尾根伝いに馬洗池、首据台、本丸、大広間、京極丸跡等と続き、山頂には大獄がある。 私が訪れた日は桜が満開でした。中腹まで車で登れ、子供連れも訪れていました。 |
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小谷城の配置図 |
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小谷城跡の看板 北陸自動車道から見える |
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「首据石」罪人の首を晒した |
「中丸跡」家族連れも登っていました |
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「赤尾屋敷跡」長政が自刃した場所 |
「小谷城跡の碑」 |
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「大広間跡」桜が満開でした。奥が「本丸跡」 |
小谷山の山頂 |
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【小谷山周辺】 | |||||
JR河毛駅前「浅井長政とお市」銅像 |
小谷城戦国歴史資料館(湖北町郡上) |
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「小谷寺」浅井家の祈願寺 |
片桐且元(秀吉の家臣)出生地(須賀谷温泉) |
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【姉川の合戦】(JR長浜駅からバスで20分、北陸自動車道長浜ICから5分) | |||||
◆姉川は米原市甲津原を水源とし、湖北平野を53Km流れ、長浜から琵琶湖へ流れる1級河川。 |
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「横山城跡」(長浜市石田町) 浅井の支城で信長が落とす。その後秀吉が守る。 出世城といわれている。 |
横山から小谷山、虎御前山、姉川を望む |
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横山の麓で見つける(長浜市石田町) |
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姉川戦死者の碑(長浜市血原) |
姉川の堤防 |
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姉川の古戦場 4万以上の兵士が戦ったにしては狭い 誇張があるかな? |
姉川古戦場の碑(血原塚) |
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ちはら公園にある布陣図 |
三田村氏屋敷跡(朝倉景健の本陣) |
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【虎御前山】(JR北陸線虎姫駅から徒歩20分) | |||||
◆1570年、姉川の合戦で敗れた長政は小谷城に篭城する。信長は秀吉を横山城に配置。その後1572年、虎御前山に織田の全軍を結集する。 |
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織田軍の布陣図 |
仁羽長秀の陣地跡 |
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登山口にある岩上神社の桜 |
滝川一益の陣地跡 |
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◆のどかな田舎道をのんびりと散策してみませんか? ◆最後に浅井長政とお市の娘、三人について。 <長女:茶々> ・秀吉の側室。秀頼を育て、大坂夏の陣で家康に滅ぼされる。 |
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(取材) 西岡 壮 2009年10月 |
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