『
大津中部エリア神社めぐり』
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<第2弾> | ||||
大津市は日本列島の中心に位置するとともに、美しい琵琶湖とそれを取り囲む、緑豊かな山々という恵まれた自然の中で豊かな歴史と文化がある地域であります。 |
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1.膳所城跡 | ||||
・膳所城(別名:石鹿城)は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で天下の覇権を握った徳川家康が、翌6年膳所崎の地に築いた水城である。城地には膳所の他、瀬田も候補地とされたが、膳所の方が東海道を抑え、瀬田唐橋にも目が届き、かつ湖上の舟運も監督下における恰好の位置にあると判断されたようだ。 ・城は寛文2年(1662)の大地震によって破損したが、それを契機に本丸などの大幅な改修が実施された。 新しい城郭は、北之丸、本丸、二之丸、三之丸が琵琶湖に突き出すかたちで北から一列に並び、湖水に洗われる石垣とその上にそびえる四層の天守閣は、江戸時代を通して城下町膳所の象徴とされた。 ・湖上に映る天守閣の姿は、人々に「瀬田の唐橋唐金擬宝珠、水に映るは膳所の城」と親しみをこめて歌われた。しかしこの名城も、明治3年(1870)諸藩に先駆けて取り壊されることになり、城門や櫓は市内外の各地「10ヶ所」に分散、保存されることになった。 |
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天守閣跡 |
城門(膳所公園入口) |
石碑 |
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膳所神社 |
膳所神社立札 |
本殿 |
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↑◆膳所神社表門(膳所1丁目)二の丸から本丸入口の城門 重要文化財◆ |
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篠津神社 |
篠津神社立札 |
本殿 |
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↑◆篠津神社表門(中庄1丁目)北大手門 重要文化財◆ |
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若宮八幡神社 |
若宮八幡神社立札 |
若宮八幡神社外観 |
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↑◆若宮八幡神社表門(杉浦町)伝本丸の犬走城門 市指定文化財◆ |
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2.粟津(あわづ)神社(京阪電鉄石坂線 瓦ヶ浜駅下車すぐ) | ||||
・中庄1丁目に鎮座。粟津神社は小祠だが膳所の総社として信仰されている。祭神は大国主命・大導寺田端之介・田中恒世。後者の二神は、同地開発の祖神とされる。田中恒世は漁業の祖神で、八柳浜(下坂本)沖で漁の最中、大和国から三輪命明神が舟中に降臨。恒世は明神に粟飯を献上し、唐崎の松まで送ったと言われています。 |
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粟津神社 |
粟津神社立札 |
粟津神社御堂 |
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3.和田(わだ)神社(JR石山駅より近江鉄道バス 丸の内町下車徒歩5分) ( 京阪電鉄石坂線 膳所本町駅下車徒歩5分) |
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・旧東海道木下町に鎮座。正面の高麗門は、文化5年(1808)創建の膳所藩校遵義堂の門を移築したもの。高麗門とは、背後の控え柱の上に小屋根を架け、天守の飾り破風のような装飾と威厳を見せるのが特徴でこの門をくぐると拝殿が見え、奥には一間社流造の本殿が鎮座する。 |
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和田神社 |
いちょうの紹介 |
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4.石坐(いわい)神社(JR大津駅より京阪バス・近江鉄道バス 西の庄町下車徒歩5分) | ||||
・西の庄に鎮座。祭神は海津見神を主祭神とし、天命開別尊(天智天皇)・弘文天皇(大友皇子)・伊賀采女宅子媛命(弘文天皇の母)・彦坐王命・豊玉比古命を祀る。 |
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石坐神社 |
石坐神社立札 |
本殿 |
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5.平野(ひらの)神社(京阪電鉄石坂線 石場駅下車徒歩5分) | ||||
・松本1丁目に鎮座。京阪電鉄石場駅の西南、旧東海道に面したところに大鳥居があり、傍らに「平野大明神」「精大明神」と刻まれた宝暦4年(1754)の石燈籠が建つ。社殿はその上方、一段高くなったところにあり、拝殿と中門、弊殿、更に奥に春日造の本殿が東面して鎮座する。又、左手には「天満宮・愛宕神社・常世神社・未力稲荷神社」が並んでいる。応仁の乱によって焼失、天正2年(1574)に現在の平野神社の相殿になりました。 ・毎年、8月9日、境内では古式ゆかしい蹴鞠の奉納があります。 ・境内には「市天然記念物クロガネモチ」・「保護樹木のイロハモミジ・カヤの大樹」があります。 |
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平野神社 |
社殿 |
カヤの大樹 |
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6 .天孫(てんそん)神社(JR大津駅下車5分) | ||||
・京町3丁目に鎮座。かつて四宮大明神と称され、明治初年に現在の社名となりました。このため、地元では「四宮さん」と呼ばれ、天孫神社の秋の祭礼である「大津祭」は「四宮祭」とも呼ばれています。 ・ 四宮の由来は、彦火火出見尊・国常立尊・大名牟遅尊・帯中津日子尊の四柱を祭神としているからとする説や彦火火出見尊が天照大神の四代目にあたるためと言われます。 ・天孫神社は恒武天皇が延暦20年(801)大津の旧都に行幸したとき、湖南地方を鎮護する神として、海神にゆかりのある彦火火出見尊を勧請したことに始まり、当時は琵琶湖岸に鎮座していたと言われます。 ・華麗な見送幕や巧みなからくり技で知られる大津祭の始まりは、慶長年間(1596〜1615)鍛冶屋町の塩屋冶兵五衛が、神を諌めるため、狸面をかぶって踊ったことによるとされ、その後、現在のような3つ車のついた曳山と発展していきました。 |
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天孫神社大鳥居 |
天孫神社 |
本殿 |
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7.関蝉丸(せきせみまる)神社(上社:京阪電鉄京津線 浜大津駅より京阪バス片町駅下車すぐ) |
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・逢坂1丁目に鎮座。関蝉丸神社は上社と下社があります。 |
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関蝉丸神社(上社) |
神社石段(上社) |
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鳥居(下社) |
立札(下社) |
本堂(下社) |
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8.馬神(うまかみ)神社(京阪電鉄石坂線 三井寺駅下車徒歩5分) | ||||
・馬神神社は、三井寺町長等神社境内にあるが、明治43年(1910)までは大津宿の中心地、東海道と北国海道が分岐する札の辻に鎮座していました。今は一間社流造の小さい祠だが、かつては大津宿の鎮守として信仰を集めていました。縁起によると寛永年間(1624〜44)この地方に疫病が流行し、人や馬に大きな被害が出た。そこで京都の吉田家(吉田神道の祭主)からこの地の神を勧請し、疫病退散を祈祷したことに始まるといわれます。 ・いつ頃から馬神と呼ばれるようになったかは不明だが、同社で配る神札や「大津東町馬神」などと染め抜かれた馬の腹掛けをしていると、馬が病気にならないといった信仰も生まれました。 ・馬神神社の棟札には、大津宿の馬持ちからの寄付によって修理されたと記されるなど、馬の信仰が盛んだったことがわかります。 |
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馬神神社 |
石道 |
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9.長等(ながら)神社(京阪電鉄石坂線 三井寺駅下車徒歩10分) | ||||
・長等神社(三井寺町)は園城寺の中輿の智証大師円珍が、貞観2年(860)に日吉山王神を園城寺の護法神として勧請したものと伝え、かつては新宮社などと呼ばれています。 ・参道正面に建つ楼門(二階建で屋根は二階のみ、一・二階の境は縁だけをもつ形式の門)は、明治38年(1905)の竣工で、設計技師は安藤時蔵、技術員は青池安太郎。構造形式は三間一戸(柱間が三つで中央が通路)屋根は入母屋造、檜皮葺。木部は丹塗(朱色)、木口は黄土、連子窓などは緑青塗で、建物の上下・左右の均斉もよく整っています。 ・蟇股・木鼻の唐草模様やたる垂木口の透彫金具などに中世の様式を見せており、近代の建築ではあるが、室町時代の和様建築の様式にのっとって再現した秀作と評価されております。近在する園城寺大門(重要文化財・室町時代)がモデルかと言われています。 ・この長等神社楼門は市指定文化財であります。 |
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長等神社 |
楼門 |
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本殿 |
境内 |
平 忠度石碑 |
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◆大津中部エリア神社めぐりマップ | ||||
(参考資料) 大津市歴史博物館発行の「大津 歴史と文化」−身近な歴史発見− |
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(取材) 大野 一宇 2008年7月 |
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