『大 津 (南 部) の 城 跡』

近江國は、京都に隣接しており、東国や北国から天下統一をめざして京都へのぼろうとする勢力にとっては最後の関門であり、とりわけその最南端に位置する現大津市域の果たす役割は重大であった。

現在の滋賀県大津市域は山中越、逢坂越など数多くの山越えの道で京都と直接的なつながりをもっており、又瀬田の唐橋も京都の喉元をおさえる重要な戦略拠点であったため市域の戦場化はさけられないところだったのである。

大津市全体で30ヶ所の城があったが、現在では形をとどめている城はなく城跡、あるいは城跡と伝えられるところが多い。今回は大津市の南部に位置する六つの城跡を紹介します。

〔石山城〕

現在地元で城跡と伝えられている場所は、石山寺二丁目の関西日本電気石山寮の建つ地である。 
石山寺の山門の左手から南へのびる細い旧道を進むと、右手に西蓮寺がみえる。そこを右に折れると、京都の醍醐へ抜ける道があり、曲がり角には、天明五年(1875)建立の、岩間道・宇治道を示す道標もたっている。
城跡とされる石山寮は、その角にある西蓮寺の背後の台地上に建っている。


【現在の石山城跡】
関西日本電気石山寮も 取り壊され、
新しい宅地に変貌している。
石山の地には山岡氏・須佐美氏・財川氏の三つの城(砦)があったと伝えられるが、石山寮の地は、地元では須佐美氏の城と伝えられているようだ。
「石山寺霊迹集」には、須佐美氏の城跡の位置は明記されていない。現在、石山寮の地付近には、かつての城跡を思わせる痕跡は残されていない。
しかし、そこから少しのぼって墓地の高みに立つと、南東方向に瀬田川と対岸に大日山が見え、真南には平津城跡とされる滋賀大学教育学部のある台地が一望できる。
  

【石山城跡よりの遠望】
石山城跡より遠く平津城跡
(現在の滋賀大学教育学部)を望む。

〔平津城〕

享保十九年(1734)成立の『近江輿地志略』には、井上越前守の屋敷跡とあり、明治十四年(1881)の『平津村誌』には、井上越前守重尚の砦跡として記されている。
井上氏の砦跡は、滋賀大学教育学部(平津二丁目)の正門を入り、坂道をのぼった右手あたりで、現在は同大学平津ヶ丘寮がたっているところという。その地形はおよそ三反(約三千平方メートル)の広さの長方形の平地が、高さ約1.8メートルの土塁でかこまれ、東と西の二ヶ所に、出入り口らしき切れ込みがあつた。 
土塁の外周には堀がめぐり、部分的には常時水のたまっているところもあって、堀の外側は坂となって下方に続いていたという。


【平津城跡】
滋賀大学の正門を入り坂を上がって右手にある平津ヶ丘寮のある所。昔の城跡の風情が残っている所である。

『近江輿地志略』には地元の古老の話がのせられているが、それによると井上越前守(重尚)の屋敷跡は「燕子花の池」というところにあって、昔はその池を蓮池といったとある。 
現在、屋敷跡の南方に古池と呼ばれる池があるが、これが蓮池にあたるのであろうか。
平津ヶ丘寮の地にたつと、寮を含む滋賀大学全体が、いかにも城山と呼ばれるような台地の上に位置することがわかる。 
東方(瀬田川の方向)は、いまは雑木で見通しが悪いが、北側には石山城跡とされる関西日本電気の石山寮や、瀬田川の両岸が一望できる。瀬田川を上下する兵船の監視などには、格好の地であったにちがいない。


【石山城跡遠望】
平津城跡から石山城跡を望む。
遠い昔お互いに監視しあっていたのかと想像される。

〔千町城〕

城跡と伝える場所は、大平山団地の南、石山千町と千町四丁目にまたがる東西に細長い丘陵上にある。丘陵にのぼると、高さ0.5〜1.0メートル、幅1. 2メートルの土塁かとも思えるような土盛りが、東西に長く続いている。
また、土塁の東端よりには、平担な突起部が南に向かって認められ、櫓跡かとも推定されている。
城跡の南側には、石山から京都の笠取・醍醐へ抜ける岩間越えの道が通り、北側には、同じく石山から京都の陀羅谷へ通じる間道があるなど、近江、山城両国をつなぐ二本の間道をおさえる位置にあったことがわかる。


【千町城 遠望】
遠くにこんもりとした丘が、千町城があったとされる城跡である。右手の方に土塁らしきものが見える。
〔瀬田城〕

瀬田川には、今でこそ東海道線や名神高速道路など、多くの橋がかけられているがかつては瀬田橋(瀬田唐橋)が唯一の橋であった。瀬田橋は政治的に重要な位置をしめた京都及び畿内地域の喉元をおさえる役割を果たしていくため、古くからたびたび、合戦の際の重要な戦略目標となってきたのである。そして、橋の東方に広がる瀬田の地も、主要幹道である東海道が貫いており、瀬田橋同様に重要な地域であった。 瀬田城は、こういった軍事上の要衝の地におかれていたのである。
瀬田城は、甲賀郡毛枚村(甲賀町)に居をかまえ、のち瀬田へやってきた山岡氏の居城として、同氏の家譜に登場する(『寛政重修諸家譜』)。
瀬田城に関する記録は元和元年五月が最後で同年閏六月、徳川幕府は各国の大名に、自領内の城は本拠地とする城のみ残し、他の城は破棄するようにせよ、という命令を下した。この時、瀬田城を含む栗田郡の地は膳所藩領となっていた為、同城もおそらくは上記法令発布に際して取り壊されたのであろう。
その後、城跡は荒廃していたようだが、貞享元年(1684)、天寧という和尚がこの地を膳所藩主から賜って一庵を建て、臨江庵と称した。
そして、第一三代膳所藩主本多康武の代に、この地を城主の別荘とし、宝暦九年(1759)新たに館を建て静養の地としたという(『近江栗田郡志』)。さらに明治維新後、臨江庵は膳所の馬杉氏の手にうつり、その後幾多の変遷を経て、現在は旅館の臨湖庵となっている。

【瀬田城遠望】
対岸より瀬田城跡を望む。写真の樹木が生い茂っているところが城跡といわれる所。現在、臨湖庵も取り壊されマンション建設中である。

現在、瀬田城跡とされている臨湖庵は、瀬田唐橋の東畔を、南へ約百五十メートル下がった所にある。今はかつての城の姿を伝えるものはないが明治二十五年(1892)測図の大日本帝国陸地測量部発行二万分の一地形図「瀬田」を見ると城跡らしい地形が読み取れる。
なお臨湖庵の表門脇には、昭和四十年十月、山岡同族会によって建立された瀬田城跡碑もたっている。

〔淀城〕

大石淀町にあり、山口玄蕃頭が守備した城と地元では伝えられている。
そのことは、「近江輿地志略」(1734年成立)や、「近江栗東郡志」(1926年刊)にも記されており、現在も「城山」という小字名が残されている。山口玄蕃頭といえば豊臣秀吉に仕え、のちに加賀大聖寺城六万石の城主となった山口正広のことであるが、淀城との関係は、具体的には判らない。
山の中にはフィールドアスレチックの施設が、現在使われることなく残されているが、この地一帯には人工的と思われる二段の平坦面がある。
そして、その北西側の坂の中段にもテラス状の細長い平坦面が認められ、また北東部にも平坦地があって、それらの外側はかなりの急な斜面となって、自然の要害をかたちづくっているかのようだ。この地は近江から山城(京都府)へと抜ける二本の間道 曽束越と宇治田原越の分岐点に近く、城の立地条件として最適であることは確かである。


【淀城跡 遠望】
大石川にかかる高橋より、淀城跡を望む。城跡らしい風情がある。

〔田上城〕

享保十九年(1734)の「近江輿地志略」には、里村(田上里村)に「古城跡」が今も残り、これは「多羅尾道可(道賀)」の城であると記されている。多羅尾氏は、その家譜等によると、近衛家の流れをくみ、甲賀郡の多羅尾(信楽町)を本拠地としていた。多羅尾道賀は、実名を光俊といい、甲賀郡信楽の小川に住んでいた。 
当初は六角氏に属していたが、天正年間(1573〜92)織田信長に仕え、同九年、信長の伊賀攻めには、堀秀政とともに従軍した。
そして天正十年、信長が京都本能寺で明智光秀に討たれるや、その翌年には、羽柴(豊臣)秀吉に仕え、秀吉の配下の武将浅野長吉(長政)の与力となっている。
田上城の位置は、同町の市立田上小学校敷地内の一帯と伝えられている。(『近江栗田郡志』)同地は、全体が小高い丘陵地になっておりその丘陵の西方は、「城の下」、南方は「堀切」という城に関係するかと考えられる小字名が残っている。地元では、この田上城を多羅尾城とも呼んでいるが、丘陵上の小学校の敷地を、かつては「テンシ」と通称していたようで、これは天城の転訛といわれている。
また昭和五十七年、東急不動産の宅地造成工事にともなう大津市教育委員会の発掘調査が、城跡に隣接する字池ヶ谷で実施された。この調査で、人工的な平坦面やピット(穴)の列が発見され、城に関連する施設の一部かとも考えられている。


【田上城跡遠望】
田上城跡(現田上 小学校) 小学校の敷地のことを地元では「テンシ」と呼ばれていた。

〔最後に〕

今回の城跡めぐりは大津市内にあるとされる三十ヶ所の古城の半分以下にすぎません。 現時点ではっきりと城跡が残る城は、ほんの僅かであるが遠い昔を思いはせながら、今後も城跡巡りを続けていきたいと考えています。
又、次の機会にお知らせしたいと考えております。

参考文献  大津市史編纂室発行 『大津の城』
取材 足立隆夫 2007年6月