近江の城  〜その6〜

小 谷 城

河毛駅前の長政とお市の方の像

◆小谷城は大永4年(1524)浅井亮政(すけまさ)により築城され、以降久政、長政と三代にわたる居城であった。湖北の小谷山全山に遺構が残っており、日本五大山城の一つに数えられている。

◆長政の頃が最盛期で、織田信長の妹・お市の方を妻に迎え織田家と姻戚関係を結び、湖北の領有を強固なものとしたが、信長の朝倉攻めの時、祖父亮政以来の盟友朝倉側に付かざるをえなく、義兄信長と敵対した。織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の姉川の合戦を経て、攻め続けられ天正元年(1573)長政は自害、浅井氏は滅びた。

◆新城主は浅井攻撃で名をあげた羽柴秀吉となるが、山城は今の世に合わないとして資材を利用し長浜城を築き、小谷城は廃城となった。

◆小谷城は姿を消したが、浅井氏の血は長政の3人の娘により、豊臣氏(長女・茶々=秀吉側室淀君)、京極氏(次女・初=高次正室)、徳川氏(三女・小督=二代将軍秀忠正室となり三代将軍家光を生む)へとつながっていった。

◆お市の方は3人の娘と共に、長政の意向で信長の元へ送り返され、のちに柴田勝家に嫁ぐが、シズガ岳の合戦で勝家が羽柴秀吉に敗れ、勝家とともに自害し、波乱に富んだ37才の人生を閉じた。

◆浅井氏三代の墓は菩提寺の徳勝寺にある。かつては、小谷城下の清水谷にあったが、その後何度も移転を繰り返し、今はJR長浜駅近くの住宅街にあり手厚く弔らわれたいる。

◆周辺の町には、長政よりもお市の方を冠にしたPRが目立つ。浅井町歴史民族資料館には『お市の里』の看板が掲げられ、須賀谷温泉は『お市の方も入った』と紹介している。

姉川古戦場の供養塔

城址銘碑

浅井町民族資料館(お市の里)

本丸跡石垣

須賀谷温泉入口の看板

長政自害の地、赤尾美作屋敷跡

小谷城案内
・所在地   東浅井郡湖北町伊部
・JR河毛駅より車で10分、本丸へ徒歩1時間
※道は狭いが、本丸へ徒歩10分の所まで車で行くことは可能。(駐車は数台)
・見学年中自由(無料)
・駐車場あり(無料)

浅井氏の墓がある徳勝寺

小谷山

浅井氏三代の墓

取材 2004年8月21日 大橋 守